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地方自治の歴史・・・・・「惣村」

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惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)ともいいます。
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惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがあった。
乙名は長老・宿老・老中・年寄とも呼ばれ、惣村の構成員のうち年齢や経験が上位の者があたった。乙名は元々、村落の祭祀を執り行う宮座(みやざ)の代表者をさしていたが、惣村の結合が宮座での儀式を中心として行われていたことから、惣村の指導者を意味するようになった。乙名は一人ではなく複数人で構成され、惣村の運営・調整・交渉などに当たっていた。乙名になりうるのは、かつての名主層や多くの耕地を保有する者などの有力者たちであった。
沙汰人は元来、荘園領主や荘官の代理人として、命令や判決を現地で執行する者をさした。荘園公領制の弱体化と惣村の発達に伴い、沙汰人は惣村とのつながりを強めていき、惣村の指導者となることもあった。乙名が惣村の構成員から年功序列で選出されたのに対し、沙汰人は領主・荘官の執行人という職を出自とし、またその地位を世襲していた点で異なっていた。
惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅ)といった。若衆は、惣村の警察・自衛・消防・普請・耕作など共同体の労働の中心を担っていた。また、女性は惣村の構成員には含まれなかった。ただし、死亡した夫の財産を相続した後家(寡婦・未亡人)については、惣村の構成員として認められることもあった。
惣村が形成された当初は、惣村の構成員は乙名のみに限定されていた。時代が経過すると名による支配体制が崩れて、多くの一般百姓(地下人:じげにん)が経済的に自立していったため、これらの地下人も惣村の構成員に加わっていった。惣村の結合の中心である宮座への参加が認められた百姓を惣百姓といい、惣村の構成員とされた。
惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していた。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていた。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていった。
惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟(そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもあった。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴がある。
荘園領主や地頭などへの年貢は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味していた。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていった。
惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られた。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいった。(リンク [1]
南北朝の動乱期になると、宮座のリーダーを中心に、自分たちの抵抗運動を効果的にするために、周辺の惣村と連合する必要が出てきた。こうした惣村の連合を、惣郷・惣荘という。京都の山科7郷は、荘園領主が異なる7つの郷で構成されていた。7つ郷は、それぞれ惣村として「寄合」を開くと同時に、その連合として惣郷を結成していた。動乱期には、「大寄合」を開いたという。富を持ち、独立心が強い農民が結合して結成された惣郷・惣荘では、非法代官の罷免を求めたり、水害・干害時の年貢の減免を求めたり、様々な抵抗を試みている。その方法も、愁訴(嘆願)・強訴(集団訴訟)・逃散(耕作を放棄して山野に逃げ散る)・一揆(集団武力行動)に拡大・強化されている。一揆などの集団武力行動になると、以前のような、宮座のリーダーでは務まらなくなった。新しいリーダーの誕生だ。それを土豪という。
土豪の中には、守護大名と主従関係を結び、新しい秩序に組み込まれる者も出てくる。彼らを地侍といった。 (リンク [2]
以上を現在の社会に照らし合わせると
① 行政関連
乙名・・・・市長、町長的な役
沙汰人・・・議員・役人的な役
若衆・・・・警察・自衛・消防・普請(修築)・耕作・
      農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)・
      大川での渡し船の運営などの実務的な役
② 立法・司法関連
寄合・・・・議会・裁判所

③ 法関連 
惣掟・・・・条例や規約
   かなあ・・・
日本のおいて、惣村は、唯一、時の権力者からの一方的な統治ではなく、自ら自治を司る共同体として成立しており、「地方自治」を語る上で統治構造の原型と捉える事ができるのではないでしょうか?
次回は、惣村における上記の役割の活動実態をもう少し掘り下げてみようかと思います
BYシロハナミミズキ

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