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地方自治の歴史・・・・「惣村」の歴史

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前回は、惣村の伝統・精神を引き継ぐ町・村を紹しましたが、今回は、集落が成立していく上で、特に関西地方に注目し、その成立期〜江戸時代までの惣村の歴史概要について調査してみました。
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○13〜15C:鎌倉〜室町時代
土地を最初に開墾して耕作する血縁集団を草分けと呼ぶが、古代、この草分けによって開墾が始まり、やがていくつかの血縁集団が集まり、定住し、地縁集団となっていく。そして、生産性の向上にむけた集団的な水利管理や土地利用のために、また治安確保のために関西特有の惣村(集落)が成立していったと考えられている。
惣は、自治組織を持った農民の地域的集団の総称である。特に早くから開墾が進み、大規模な荘園や公領の発達した畿内では、13世紀中ごろから地域を運営管理する惣庄が成立し、地頭や荘官に代わり地下請け(領主から課せられる年貢や公事を集落単位で請け負うこと)を行った。
この惣庄の成立によって集落内の結合は一段と強められ、南北朝の内乱以後には、武士の覇権争いから自律する形で自治性の強い惣村が成立した。惣有地を保有し、灌漑水利や入会山を自主的に管理し、宮座、寄合(最高決議機関)といった組織を運営し、村掟を定め、年寄・大人・若衆といった年齢階梯集団を持っていた。いくつかの集落が集まった広域的連合組織を惣郷と称し、畿内の大半は惣村と広域的な惣郷の二重構造をもって運営された。
○15〜16C:室町〜安土桃山時代
関西の農村集落が今日のような形で形成されたのは15〜16世紀頃であることが定説となっている。市史等の石高の伸びを見るとほぼ大半が戦国期までに確立されており、今日の家屋の立地場所は、農地水利を基本にほぼ戦国期までに固定化されていったと考えられる。関西の集落は、群としてひとつの塊のように家屋が分布する塊村形態を特徴としている。集落の塊村化も惣村の展開と併行して進んだものであり、一般に、集落の出入り口には勧請縄やサイノ神を配置して集落の結界を表現し、集落内は門塀を有さずオープンなたたずまいとなっている(これに対し関東では独立した屋敷が散居状に分布する形態となる)。各所に入会地、辻、井戸端、路地、小詞、公民館などの「共用空間」が存在して人々のたまり場や情報交換の場となり、神社境内の開放的な空間は季節ごとの祭りや市、見世の場となった。このように集落空間では私権が支配的になることはなく、土地利用の緩やかな管理権と利用権が成立していたのである。
○17C:江戸時代〜
やがて惣は、徳川幕府による郷として近世の全国的な農村的秩序に移行していくこととなるが、近畿では300年にわたって培ってきた惣の村掟や寄合慣行などはそのまま存続し、その機能を保ちながら幕藩体制の庄屋、組頭、百姓代の体制として運営された。役職や肩書きよりも「寄合」を重視する関西の農村風土は、こうして生まれたのではないかと考えられる。江戸期の領主圏域は政治的な側面から必ずしも荘園領域と一致しないのであるが、伝統的な荘園領域が大字として明治期の町村制に活かされたのも、惣村を母体とする集落運営の伝統が大きく寄与しているといえる。(これに対し、関東では近世の領主支配の区域が町村制へと移行している。)  (リンク [1]
このように、近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。(リンク [2]
ここに非常に興味深い史実がある。
1857年。江戸幕府に海軍伝習所での教育を依頼されて来日したオランダ人、ファン=カッテンディーケは、次のように述べていた。日本の町人が「ヨーロッパの国々でその比を見ないほどの」自由を享受している一方、日本では「警吏は全然ないといいたい」ほど警察が弱体である。少なくとも江戸時代まで、日本の地域社会は自律的だったのではないだろうか。地域社会レベルでは無政府の事実(住民の合議制による地域運営)が存在していたのではないだろうか。(リンク [3]
この事実をつなぎ合わせると、元々日本には、地域社会を自力で、組織化できる活力を持っており、先に挙げた宮崎県諸塚村、長野県栄村だけではなく、現在でも、私たちには、惣の伝統・精神を存続できる潜在的な力が秘められているのではなかろうか?
BYシロハナミズキ

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