- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

首都圏一極集中:1972年に遡る。

kokudo3.jpg [1]
日本列島改造論
今回は、少し視点を変えてみたいと思います。
現在、首都圏への人口流入が止まりませんが、時代を遡ると、この問題と同じような時期が過去日本にありました。1972年、当時の田中首相が政策として提起した『日本列島改造論』を発表した頃と一致します。
当時の政策の思惑と現在の都市と地方の状況を結びつけて考えていきたいと思います。

その前にポチッとお願いします。
  ↓


日本列島改造論:(引用 [2]
その主旨は、高度成長期に発生した都市部の人口過密・公害・物価上昇や農村の過疎化といった問題を解消するため、工業地帯の再配置や交通・情報通信網の整備をテコに、人やモノの流れを大都市から地方に逆流させ「地方分散」を推進するというもの。田中は首相に就任するとすぐ首相の私的諮問機関として「日本列島改造問題調査委員会」を発足させ、具体的な計画の実現に乗り出す。この計画に触発されて、開発をあてこんだ土建業者や不動産業者などが土地投機に走り全国的に地価が高騰、それに対する批判や公害の拡大などを懸念する声も上がった。
とはいえ、政治家による選挙区への利益誘導型の公共事業(道路や公共施設の建設など)はこれ以後定着し、過剰な投機による地価の暴騰も80年代後半のバブル期に再現される。これらの出来事は日本列島の風景を大きく変え、『日本列島改造論』はその計画の失速以後も様々な形で影響を残したといっていいだろう。
この発想の原点は何なのか。田中首相は「むすび」にこう書いています。
《人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の2間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ、地方から若者の姿を消し、いなかに年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の100年を切りひらくエネルギーは生まれない。かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした》

*『列島改造論』:田中角栄の主張および著書。1972年6月に日刊工業新聞社から刊行され、当時発行部数91万部、年間4位(出版科学研究所調べ)のベストセラーとなった。
当時、田中首相は、強力に交通・情報通信を構築、推進すれば、都市と地方の格差は無くなり、ヒト・カネ・モノは、分散、平準化されると考えていたようです。
確かに、政府の予算の主な配分先は道路、鉄道、港湾といった、公共施設が中心となリ、日本のインフラは整備され続けました。(しかも、国債を発行し続けて・・・) 教育や福祉も同様で、小中学校、保健所、健康保険、介護保険、警察、消防といった行政サービスも、国が地方団体に指示し、お金を配ってつくりあげていきました。
しかし、今や、田中首相がめざした「国土の均衡ある発展」は地方の人口減という流れの中でまぼろしになってしまっているのが現状です。国と地方に巨額の借金が残っているのに、地方の富を現す地価は34年前の水準に逆戻り。
今や、田中首相がめざした「国土の均衡ある発展」は風前のともしびとなっています。 道路や新幹線を整備すればするほど、都市と地方の格差が広がっていき、現在、田中首相の思惑が全く反対の方向に走っているのは何故なのか?

1970年代、貧困が消滅し、お金が第一の価値観である時代は終わり、現在、人と人の繋がりの大切さ、人との交わりの中から活力を求めていく時代背景の相違はあるとはいえ、反対に当時から変わらずに、流れ続けているシステムや体制等もあり、これから地方改革を考えていく上で、『日本列島改造論』は、有効なヒントを握っているのではないかと思います。
田中首相は、当時、高速道路の効果に関して、いくつもの具体例(成功事例)を挙げています。
○滋賀県の栗東町は、名神高速道路ができたおかげで新興工業地区へと一変した。
○農業中心都市で愛知県小牧市は、名神、東名両高速道路のおかげで工業都市、流通基地として脚光を浴びるようになった。
○大阪の青物市場では季節になると東名、名神を突走って福島県岩瀬村のきゅうり、茨城県のピーマン、埼玉県の長十郎梨などさまざまな商品が出回るようになった。
現在、これらの地方都市は、どのようになっているのか?も含め、次回以降は、まずは、いくつか視点から事例をあげていきたいと思います。

[3] [4] [5]