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戦後日本の高度経済成長を検証する NO.1

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経済を調べていくうちに、その動向はいわゆる国際金融資本家の舵の取り方で決まっているように思えてなりません。
とすれば日本の経済成長もその影響下にあったのではないかと考えたくなります。

例えば、戦後の高度経済成長について、世界の経済状況が均衡状態を維持していたなら、果たして「東洋の奇跡」と呼ばれるほどのことがあり得ただろうか?日本独自の技術開発や資源開発が行なわれたわけでもないのに・・・。
というわけで、1950年代から始まる戦後日本の経済成長を、これから改めて皆さんと検証していきたいと思います。

さて某国営放送などTVで見る“日本が輝いていた時代”の実態は果たしてどうだったのか?そろそろ頭のかがやきが気になってきた人もそうでない人もポチっと応援よろしく


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それでは、まず最初に
◆敗戦からの復活前夜
日本は、敗戦直後、激しいインフレに襲われました。
1935年の卸売物価水準を基準とすると、終戦時には3.5倍、1949年には208倍を記録したそうです。

○対ドルの為替レートの推移を見ると
  

1871年(明治4年)  1ドル= 1円 (新貨条例創設時)
1897年(明治30年) 1ドル= 2円 (金本位制採用時)
1930年(昭和5年)  1ドル= 2円 (金本位制復活:旧平価)
1932年(昭和7年)  1ドル= 5円程度 (高橋財政下における変動為替制)
1941年(昭和16年) 1ドル= 4.25円 (太平洋戦争開戦時)
1945年(昭和20年) 1ドル=15円 (GHQの占領政策下の当初交換レート)
1949年(昭和24年) 1ドル=360円 (ドッジライン)

戦時中に円の価値は、3分の1から4分の1に低下し、さらに戦後の数年間で20分の1以上に価値が減少したことになります。
*ちなみに、第一次大戦後のドイツに訪れたハイパーインフレは、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落するインフレでした。

これに対して当時の日本がどのような財政・金融政策をとっていたかというと、
①積極財政・金融政策により需要を刺激しつつ
②傾斜配分方式により資源制約を回避し
③国際収支の不均衡については複数為替レートにより対向する

という三点セットです。

①積極財政・金融政策 大胆に資金を投入して生産活動を活性化すべきだと考えに基づいて復興金融金庫が作られます。しかしいくら資金を注ぎ込んでも、生産活動に必要な原材料がなければ生産できず、日本は常に資源の壁に悩まされます。
②傾斜配分方式 そこで、石炭と鉄鋼という重要物資の生産に重点を置いた「傾斜生産方式」という産業政策が実施されます。この資金の流れをコントロールしたのが復興金融金庫です。
③複数為替レート 輸出産業が活性化し、国内が潤ってくると、次第に輸入が増えてきます。輸入が増えるということは円を外貨(ドル)に両替する需要が増える訳で、これは円安ドル高をもたらします。その結果、固定為替相場制度を採用している日本政府は、為替レートを維持するために市場から円を吸収する必要がでてきます。そして、国内の貨幣供給量が縮小→信用収縮→バブル崩壊へというシナリオに繋がる訳です。そこで、輸出を推進しつつ、輸入を抑制するような為替レートを採用します。輸出商品と輸入商品とで別々の為替レートを設定したわけです。実質上の政府による輸出補助金であり、差額を補助するために、復金の支援という形、つまり紙幣の増額という形で輸出産業をバックアップしていたのです。

しかし結果的に紙幣の増発によるインフレを引き起こしたのです。
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アメリカは、冷戦の中で日本を反共陣営の一員として強化するため、経済の「自立化」「安定化」を図る政策に転換し、そのあらわれが、1948年のGHQの経済安定九原則であり、これを具体化したのがドッジ・ラインであった。

ドッジ・ラインとは、GHQ経済顧問として来日したデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが、1949年3月に勧告した、財政金融引き締め政策。
ドッジは日本の経済を、両足を地につけていない竹馬にのっているような経済と評した。
「竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある」と述べ、アメリカの援助や復金融資・価格差補給金などの削減を示唆した。

また為替レートは単一固定レートの設定を主張した。
*1948年に再開された日本の貿易は占領軍の管理する国営貿易で、為替レートは商品ごとに異なっておりややこしい。貿易拡大のためには単一固定レートの設定が不可欠だった。

1949度予算は歳入超過となり、その黒字は国債や復金債の償還にあてられた。国債・復金債の大半は日銀が所有していたため、通貨は日銀に吸収されて収縮した。
一方、公共支出増大の主因だった復興金融金庫は、1949年3月で融資を停止した。
1949年4月には一㌦=360円の単一為替レートが設定された。
ドッジ・ラインが実施された結果、通貨増発要因は解消してインフレは一気に収束した。日本の経済がいわば国の管理下から切り離され“自立”という環境が整ってきたと言えます。
しかし、復金融資の停止やデフレーションで倒産・解雇があいつぎ、「ドッジ不況」がもたらされたのです。

さて、次回はここからの復興を確認したいと思います。

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