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天下一の両替商〜「鴻池家」と江戸時代の金融システム〜

Posted By finalcut On 2008年6月30日 @ 10:19 PM In 02.日本の金貸したち | 13 Comments

日本金融史1 〜近代化の始まりは明治維新ではない!〜 [1]

日本の金貸し達は、どのように生まれ、どのようにしてその勢力を拡大してきたのか。また欧米の金貸し達とは、どのようにつながってきたのか? 歴史をさかのぼって追求していきます!

歴史をさかのぼれば、商業を生業とする町民が登場するのは平安後期あたりだといわれています。戦国時代になると、のし上がる大名に取り入って財を成した商人が多く、支配者と商人の結びつきが次第に強く、濃くなってきます。そして戦国の混乱から江戸期に入ると市場規模拡大にともなって、物品を取り扱わず「金銭」を売買する両替商=『金貸し』が登場します。
江戸時代の両替商といえば大坂の『鴻池屋(鴻池家)』、江戸の『越後屋(三井家)』が代表的ですが、近世から現代に至るまで日本国中知らぬものはないぐらいに『金貸し』として名を馳せたのは鴻池一族をおいて他にないと思われるのでまずは『鴻池家』を紹介し、合わせて江戸時代の商人がすでに近代金融システムの基礎を築いていたことを明らかにしておきたいと思います。
鴻池家の代々当主は鴻池善右衛門(初代〜13代)を名乗り、日本を代表する豪商として、長く繁栄しました。全盛期には全国110藩が鴻池家から融資を受けていたらしく、「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とまで言われました。幕末には鴻池家の資産は銀五万貫にも達しており、幕府の全資産に匹敵する額の資産を蓄えていたそうです。
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双六に描かれた鴻池屋
鴻池家が商人として成功し、大富豪になっていった物語は実に面白いのですが、関連する書物も多いので詳述は他に譲り、ここではあらすじだけ紹介します。
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両替商(金銭の売買)の先駆けは天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛という大坂の商人で、鴻池三井は両替商の元祖ではありません。
鴻池家の始祖は出雲の戦国大名尼子家に仕えた山中鹿之助(尼子十人衆の一人)の子(孫との説もある)山中新六といわれています。毛利家に攻められて尼子家が滅亡、鹿之助は謀殺されますが伊丹鴻池村に落ち延びた?山中新六が酒造業を営みます。
この新六が日本史に残した偉大な足跡が「清酒」の製造(1600)で、後世に「清酒の生みの親」として山中新六の名は語り継がれることになります。それまでの酒はどぶろく(にごり酒)だったのですが、新六に叱られた下男が腹いせに酒樽の中に灰汁を投げ込んだらきれいに澄みきった酒になったというのが清酒の発祥、まったく偶然の産物です。それを商品として売り出したのが鴻池一族の才覚だったのでしょうか、ここから鴻池家の繁栄が始まります。のちに伊丹の「剣菱」「白雪」などの銘酒が高値で取引されて伊丹は当時の清酒業界をリードする酒どころとなり、領主近衛家も財を築き中央政界に進出していきました。
酒造業での成功を基礎にして、新六の息子新九郎が大坂へ出て鴻池善右衛門(初代)を名乗り海運業を始めます。すると「陸運から海運への大転換」という時流に乗り、「下り酒」(上方から送られる上質の高価な清酒)の江戸への大量輸送が始まります。そして大坂の九条(衢壌)島が開拓されればそこを本拠とした鴻池海運は順調に商売を伸ばし、資産を蓄えていきました。
事業の成功で資産家となった鴻池家は今橋で両替商『鴻池屋』を創始します。
のちに樽廻船(酒専用の輸送船)の運航(1730)が開始されるなど、合理化をはかって海運業はますます盛んになり、この時期に海運を始めた商人はいずれも莫大な財を築いて幕府や新政府に多大な影響力を行使するようになります。(兵庫津の北風正造、淡路の高田屋嘉兵衛、酒田三十六人集など)
すでに「大名貸し」を足がかりに両替商に専業化し、老舗の天王寺屋とも手を組んだ鴻池屋は、幕府の「御用両替」(公金取扱所)かつ「十人両替」(現在の為替ディーラー)のひとりとなっていました。鴻池屋は興隆期にあった海運業をささえる大スポンサーでもあり、海運の発展とともに巨商となっていったのです。
江戸時代260年間、日本全土は一次産業、製造加工業を見事に自国内でまかなっていました。
そして一国の自給自足経済を成り立たせていた「輸送」「金融」をほぼ掌握していたのが鴻池家で、「日本の富の七分は大阪にあり、大阪の富の八分は今橋にあり」と言われ、講談や落語にもたびたび登場する「日本の金貸し」の代表格なのです。
さて、鴻池家をはじめとする江戸時代の両替商が作った金融システムが、近代信用機関の発展と都市商業資本の集積の基礎となったのは間違いありません。
[2]
江戸時代の三貨
【御用両替】

特に江戸・大阪間では消費都市である江戸の商人達からの支払のための手形と商業都市である大坂からの江戸幕府の大坂城御金蔵や諸藩の蔵屋敷における米や物産の売却代金を幕府中枢及び諸藩の江戸屋敷に御用両替商を通じて送金するための手形(幕府ではこれを「公金(江戸)為替」と称した)が行き交っており、大坂の両替商は幕府や諸藩から依頼された送金用の金銭で江戸から流れてきた江戸からの支払用の手形(下為替)を買い入れて(国内為替市場の形成)、江戸の両替商に送り、江戸の両替商はそれを江戸の商人達から取り立ててその代金を大坂の両替商に代わって幕府や諸藩に納付していた。

FX 人民元取引 [3] 様から引用しました。
【十人両替】

江戸は金貨を中心に流通(金遣い)しており、大坂(上方)は銀貨が流通(銀遣い)していた。銭は全国共通。つまり、金貨と銀貨は現在の円とドルのような関係であった。今でも銀行がドルと円をその時々の相場で交換してくれる。当時も一緒。この外国為替を扱うような大銀行を本両替という。それに対して外国為替を扱わない信用金庫のような中小銀行を銭両替といった。
 金・銀・銭の交換レートは17世紀のはじめ(1609年)に幕府が、金1両=銀50匁=銭4貫文としたが、「天下の台所」とよばれ江戸へ物資を送り込む大坂の方が、当然経済力が強く、現実には大坂の本両替の代表(十人両替)が、毎日交換レートを決める変動相場制であった。なお、金貨・銀貨・銭貨はそれぞれ金座・銀座・銭座で作られている。

野澤道生の『日本史ノート』解説 [4] 様から引用しました。
日本の自給自足経済に大きな転機をもたらしたのが「ペリー来航→開港」の一大事件です。この事件を皮切りに日本は国家、市場とも大きく揺り動かされ、まさしく「世の中がひっくり返る」体験をするわけです。
江戸時代に確立されていた金融システムも、大政奉還、廃藩置県によって為替に対する信用不安を生み出す可能性が出てきました。そこらへんの展開は後稿にご期待ください。
維新後の『鴻池家』は金融業以外の営業分野の拡大をあまり図らず、また堅実を旨としていました。そのため「政商」としての性格を色濃く持つ『三井』のように新政府と歩調をあわせて急速に発展することはありませんでした。
鴻池銀行も一地方銀行へと後退していましたが家業は安定しており、1889年に日本生命の初代社長に就任、1911年に男爵に叙爵されます。1933年に鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併して三和銀行が創立されました。その後も日本有数の富豪としての地位にあり、「鴻池財閥」として関西政財界を支えた重鎮です。
第二次大戦後の財閥解体の影響、農地改革で多大な資産が一族の手から離れましたが、日本史上に刻んだ『金貸し』としての名はいまもなお語り継がれています。


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[3] FX 人民元取引: http://fxcassis.blog93.fc2.com/blog-category-1.html

[4] 野澤道生の『日本史ノート』解説: http://www.geocities.jp/michio_nozawa/kinsei4.html

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