- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

明治政府の捏造〜日本に文明開化をもたらしたのは誰か?〜

日本金融史1 〜近代化の始まりは明治維新ではない!〜  [1] 
で↓の文章を掲載しました。

こうして見ただけで、維新後に日本をリードした近代的産業の母体を、徳川幕府に仕えていた頭のいい人間たちが生み出した姿が浮かびあがってくる。維新政府は、その幕府の要人をこの世から抹殺して物言えなくしてしまい、旧幕府をさんざんにののしり冒瀆しながら、実はあとから出てきて、幕府が磨いた知恵と遺産を横取りし、それをすっかり利用し、あたかも文明開化が自分たちの功績であるかのように喧伝してきたにすぎないのではないかという疑念が湧いてくる。

(広瀬隆著「持丸長者」より抜粋)
同じ広瀬隆著「持丸長者」に、日本に外国の知識を伝えるのに大きな役割を果たした人たちが時代順に書かれてあったので要約してみました。
[2]
「大日本持丸長者鑑」(早稲田大学図書館蔵)
続きはポチッのあとで↓↓↓
      


近代化を導いた知識伝播の順序

1.開府以来、平戸・長崎で外国人と接してきた通詞、長崎奉行、長崎町年寄及び周辺諸藩で先見的な目を持つ若者。(1824シーボルト鳴滝塾→伊藤圭介、二宮敬作、港長安、高野長英ほかの教え子たち。1841洋式調練を実演した高嶋秋帆←長崎町年寄)
2.長崎の出島に出入を許された「丸山遊里の女たち」→民衆に知識普及。
3.北前船貿易商と密貿易商人(豪商→1811高田屋嘉兵衛、密貿易人→銭屋五兵衛、河南源兵衛、浜崎太平次) → 商人世界に西欧文明と商業の利権を伝えた。
4.漂流民(1792大黒屋光太夫、1851ジョン万次郎)←長期外国滞在者。最も確かな知識を伝えた。
5.1842アヘン戦争を知って自発的に近代技術、西洋医療の積極的導入に踏み切った開明派の藩主たち。(蘭癖大名⇒薩摩:島津斉彬、佐倉:堀田正睦)
6.1853米のペリー、露のプチャーチン来航以来、外国折衝にあたった浦賀奉行所与力同心、外国応接掛、幕臣、通詞たち。
7.1855ディアナ号沈没後代替艦船建造に参加した職人が洋式帆船の製造技術を体得。(上田寅吉、鈴木七助)→のちに長崎海軍伝習所で指導。
8.1855長崎海軍伝習所で学んだ伝習生(佐賀藩の中牟田倉之助、田中久重、薩摩の五代友厚ほか幕臣たち)
9.1859開港後の長崎、横浜、箱館で外国商と輸出入の取引に応じた商人たち。→生糸輸出を柱に最先端の技術、商業文明、近代建築などの欧米文化を取り入れる日本最大の窓口に
10.幕府が送り出した使節団
    1860日米修好通商条約→人見正興、小栗忠順、咸臨丸乗組員
    1862開港開市延期交渉使節
    1864横浜鎖港談判使節
    1865軍事視察
    1867軍艦買い付け、パリ万博出展
11.1862幕府最初の海外留学生⇒海軍伝習生ほか優秀な幕臣、医師、職人たちをオランダに送った。以後、露、英、蘭、仏と続き合計5回に及ぶ。
12.1863長州藩の密航イギリス留学生(井上馨、伊藤博文、他3人)
13.1865薩摩藩によるイギリス留学生(五代友厚、寺島宗則が主導)

 (以上 広瀬隆著「持丸長者」〜近代化を導いた知識伝播の順序〜を要約)
   
日本の近代化は明治政府の要人たちの手によって推し進められたと思っている日本人が多いですが、実際はそうではありません。
彼らよりも早く外国と接点を持った幕臣や通詞こそ先駆者であり、外国の文明、知識を日本に取り入れる最大の窓口となったのは密貿易を含む商人たちであり、また遊女や漂流民により諸外国の真の姿が民衆に伝えられたのです。
維新後、明治政府は咸臨丸乗組員、薩長の留学生をフロンティアとして後世に伝えていますが、咸臨丸は使節団に随行しただけで滞在期間も短く収穫はほとんどありませんでした。留学生も幕府が送った人材、規模には到底及びません。実際、明治以降の発展の主力となったのは榎本釜次郎、西周、林研海ら幕府の留学生たちです。
つまり、
明治以降日本人に教育されたのは、前の時代を全否定せんがために事実を隠蔽し、捏造された歴史なのです。

    

[3] [4] [5]