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日本金融史3 ~三井財閥がどのように誕生したか~

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前回の記事〜蛾=生糸から産業が生まれ、銀行が生まれた〜 [1]では日本の銀行を初め、通信も鉄道も新聞も、繊維業の生み出した資金で始まった という事が分かりました。また、三井・三菱・住友・安田・古河などの財閥が幕末から明治初期にかけて、形成されていますが、これも全産業の70%を占めた、繊維業が生み出した資金によるもののようです☆
今回は、幕末〜明治維新にかけて、日本の金貸したちがどういう形で誕生したのか?政府に取り入る事で財閥となるまで拡大した三井の例を、 『持丸長者』(広瀬隆著)を要約する形で、取りあげてみようと思います。
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『持丸長者』第三章 『財閥続々と台頭する』〜三井財閥がどのように誕生したか〜より
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・幕末、幕府の勘定奉行、小栗上野介から莫大な軍資金の提供を要求され、三井江戸両替店が破綻の危機に直面します。

・小栗家より知遇を得ていた脇両替屋の美野川利八(のち三野村利左衛門)が小栗を説得、御用金を減額することに成功して、三井は生き返ります。

・その後小栗が横浜貿易の関税収入を生糸売込商に融資を決定、三井が実務を担当。莫大な公金を扱う特権を獲得します。

・やがて、幕府最高の知恵者小栗が罷免されると、その時三井の中心人物になっていた、美野川利八(のち三野村利左衛門)が、『もはや幕府に人材なし!将来なし!』と見限ります。

・他方、三井大阪両替店の番頭、吹田四郎兵衛は薩摩の大久保利通に取り入り、幕府と新政府の二股をかけていました。

・戊辰戦争の趨勢を読み、三井は官軍に巨額の融資を行うことを決断、動乱を乗り切ります。

・そして、官軍=新政府が無能モノばかりであることを見抜き、政府の金庫をそっくりいただく事を、“新政府戦略”として推し進め、拡大していきます。
☆明治維新後の三井財閥の誕生と拡大
・番頭の吹田四郎兵衛を新政府にもぐりこませて通商司長官(権正)になる。
・廻漕会社、通商会社、為替会社を設立し、そのトップに立つ。
・大阪為替会社には兵庫商社の幹部はじめ江戸時代の両替商を集結させる。
・吹田四郎兵衛が神奈川県知事、陸奥宗光の政略結婚に協力(芸妓だった陸奥の許婚の身分を格上げするため、吹田の養女にした)→知事の便宜で横浜の土地を買占め大地主に。
・廻漕会社は後に廃藩置県で政府が各藩から取り上げた蒸気船を引き受け、「日本郵便蒸気船会社」を設立、海運が三井の掌中に落ちる。
・全国規模の海運会社が出来たことで、郵便制度が実現する。
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幕府にも、新政府にもお金を出して二股をかけていた三井がなぜ新政府に付いたのか、非常に興味が湧いてきましたが、後に、三井は、有能な人材を多く配したことから「人の三井」と言われたり、「番頭政治」といわれていることからしても、戊辰戦争での幕府、官軍の動性を読みきった三井の”人材の勝利”であったように思います。その、時勢を見抜く目が合ったからこそ、現時点まで脈々と続く財閥があるのでしょうね。
また、人と人とのつながりが濃かった逸話として、美野川利八(のち三野村利左衛門)は小栗上野介が斬殺された後、未亡人と遺児を自宅に引き取って庇護していた事があげられます。著者 広瀬隆氏はこの章の最後に「三野村利左衛門は郵便蒸気船が横浜に走るのを見て小栗を思いひそかに涙を流したに違いない。」とまとめています。小栗上野介の構想した通りの郵便制度が、明治政府、財閥の功績として実現しているのは、激変の時世ゆえ、幕府がもう少し存続していたら幕府発の郵便制度が出来ていたかもしれません。
因みに、 「日本国郵便蒸気船会社」は現在の「日本郵船」とは別物のようです。
廃藩置県のドサクサにまぎれて三井が政府から船を分捕って明治5年に設立したこの会社は、明治8年に大久保利通についた岩崎(三菱)の工作によって解散、すべての船舶が三菱に流れます。
その後、三井と新興勢力である三菱との間で海運を巡る覇権争いが続きます。しかし、明治18年に三井と三菱の世紀の合体が実現、産まれたのが、現在まで続く超巨大企業「日本郵船」となります。
以上、幕末〜明治維新にかけて、日本の金貸したちがどういう形で誕生したのか?政府に取り入る事で財閥となるまで拡大した三井の例をまとめてみましたが、この激動の時世、幕府に大金を貸していた「大阪の商人はどうした?なぜ動かなかった?」が気になります。
それは、次回に続けたいと思います。キーワードは 「廃藩置県」 です。

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