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日本金融史7〜日本の政治家が財閥に操られるようになったのは、何で?〜

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夏の盛りは過ぎましたが、つぎは読書の秋が迫ってきたせいか、書物片手に社会のこと、歴史のことなど勉強する姿を、最近、周りでたくさん目にします
 
さて、本シリーズの前回記事は、こちら
『日本金融史6 〜三菱財閥躍進を裏から支えたアメリカ〜』 [3]
 
今回は、明治期の政治家と財閥の力関係について、見ていきます。
 
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これまで見てきたように、日本の財閥は、明治の揺籃期に政府との閨閥を基盤に、政府を動かし、その財力を蓄えていきました。とは言っても、明治政府は最初から財閥の言いなりだったわけではありません。
 
むしろ、『廃藩置県の大混乱と大手両替商の破綻』 [4]で見たように、新政府にとって金貸しは“やっかい者”で、淘汰されるべき存在でさえあったのです。
 
では、なんで、新政府と財閥の関係が転換したのでしょうか?
 
『持丸長者 幕末・維新篇』(広瀬隆著)から要約する形で取りあげます。
 
 

薩長藩閥と呼ばれた政治家集団と財閥商人の、いずれが主導権を握っていたのか?
 
三井、三菱、住友、安田、古河、大倉、浅野、川崎、藤田の財閥側商人集団が、薩長による藩閥政府の目の色をうかがっていたのは、明治の初期20年ほどのこと。
 
特に明治14年に松方正義が大蔵卿に就任してから、官業払下げ(民営化)が次々とおこなわれ、三井は富岡製糸場を手に入れ、三菱は長崎造船所を、古河は幾多の銀山・銅山を、浅野は深川セメントを、川崎は兵庫造船所を、大蔵は札幌麦酒醸造所を、という具合に、政府が国民から巻き上げた莫大な資金を注ぎこんだ官営物が、驚くほどの安値でこれらの財閥の手に落ちて彼らを肥やしてしまった。そのため、明治時代後半には、むしろ逆に政治家が自ら進んで、財閥の利益を考えて動くようになり、政治力と民間の経済的権力が資本力に集中した。
 
それは、明治7年に日本に初めて誕生した政党というものが、いつしか財閥を通じて活動資金を手に入れるようになったからであった。板垣自由党と大隈進歩党が、薩長藩閥政府に反対するため合同して明治31年につくった憲政党は、わずか2年後には長州の伊藤博文と手を組んで、立憲政友会となったが、この政治集団は「三井党」として知られ、議席の過半数を獲得して日本を支配した。

 
 
整理すると、
 
三井・三菱の傀儡であった松方正義らが、官業払下げによって、次々と国富を財閥に流してしまった。
 
その後、薩長藩閥政府に反対して作られた政党も、たとえば大隈重信の進歩党は三菱の資金に操られたし、その後、板垣退助の自由党と合同してできた憲政党は、三井に支えられていた。
 
要するに、
政治家は財閥と結託して、互いの権益を高めるために行動したから、財閥の力が政治をも支配するようになった。

 
ということになります。
 
 
ところで、この政財界の背後に、欧米の財閥はどのように関わっていったのでしょうか? 「官業払下げ」が次々と行われた背景に、(長銀を外資系にただ同然で払い下げたのと同じように)国際金融資本が財閥または政府の後ろで、糸を引いていた可能性はないのでしょうか?
 
 
それらを明らかにするために、本シリーズでは今後、以下のポイントを追求していく予定です。
①欧米(の金融資本)が日本に開国を要求した目的は、何?
②薩長と金融資本(ロスチャイルド?)は、(いつから、どのように)関係しているの?
③明治初期、日本の諸制度は、欧米の誰から学んだの? 日本の諸制度導入のために動いた欧米人は誰?
④明治期、日本の財閥は、欧米の金融資本(ロスチャイルドやロックフェラー)とどのように関わっていたの?
⑤欧米の金融資本(ロスチャイルドやロックフェラー)にとって、明治期の日本の財閥と関わることで、どんなメリットがあったの?

今後の展開に、ご期待ください 8)
冒頭の表は、小林正彬『日本の工業化と官業払下げ』1977,東洋経済新報社より。

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