- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

経済破局は来るのか=番外編= 〜「国家が金貸しの手に落ちた」瞬間〜

本日の日経平均終値は7162円90銭、バブル後最安値をアッサリと更新しました。世間の空気も「いよいよ」感が高まってきたような感じです。
そんな中、私たちはなんで屋さんの『グランドセオリーvol.4 経済破局は来るのか』 [1]をテキストに、みんなで基礎からスタディしています。今回は「金貸しの登場」でした。
さて、
「国家(支配者)に金を貸す」
金貸しがこの旨味に目をつけた、そのきっかけとなった出来事が何かあるはず。いったい何があったのでしょうか。
貴族階級が集まるサロンでの交流を足場にして支配者に近づいていったという場面がイメージしやすいです。そこで、「国家に金を貸す」仕組みがどのように始められたのか具体的に知りたいと思い、調べてみたら12世紀のフランスにさかのぼりました。
また、国債のシステムは17世紀のイングランド銀行設立に始まるとされています。が、12世紀のイギリスでも、すでに国債の原型といえる取引が支配者と商人の間で行われていたのです。
%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E9%8A%80%E8%A1%8C.jpgイングランド銀行
この画像はchronicle.air-nifty.com [2]さんから拝借しました。
続きはポチッのあとで↓↓↓
      


国家に金を貸し始めた、元祖「金貸し」〜テンプル騎士団〜
12〜13世紀にかけてヨーロッパ全土で国際金融業を展開し、壮絶な幕引きで名を馳せたテンプル騎士団は、もともと十字軍の護衛兵として創設されたものです。遠征を繰り返すうちに地中海を制して兵員輸送、中東との貿易で富を築き、キリスト教徒向けの金融業も行っていました。1162年ローマ教皇への寄進の見返りに税の免除、領民から税を徴収する権利、独自に神父と墓地を所有する特権を与えられ、さらに富を拡大していきます。
1249年、フランスのルイ9世がカイロで捕縛され、身代金が要求された時に不足分を立て替えたのが、テンプル騎士団が国家に金を貸した最初の事件です。このことで国王から信任を得、王室の金庫の鍵をひとつ預かって国王の財産を管理するようになります。すると「国王の財産を管理している」という事実は信頼感を高め、あらゆる身分の人がテンプル騎士団に財産を預託するようになりました。
さらには民族、宗教を問わず、騎士団の金印を押した手形さえあれば現金化できるようにし、ヨーロッパから中近東まで各国の王の財産をテンプル騎士団が預かるようになりました。こうして王侯貴族を相手に、貸付け、財産管理、為替業務などを扱うなど最古の銀行システムを整備し、「国際銀行」として莫大な富を築いていきます。
その最盛期にはフランス国王をはるかに凌ぐ財力を一手に握り、ヨーロッパ全土の金融を支配します。
しかし最後は、金貸しに支配される危機を察知した国王によって潰されるのです。
このテンプル騎士団については「るいネット」 [3]とそのリンク先に詳しい記事がありますので、そちらを参照してください。
徴税請負人との債務関係が国債の始まり、そしてイングランド銀行設立まで
さて中世から近代にかけて世界をリードしたイギリスではどうだったのでしょう。
Matrix [4]さんのブログに↓の記事がありました。一部分引用します。

 イギリスの国債は、名誉革命(1688年)に始まると言われていますが、国王自身の借り入れは、既にノルマン朝時代(1066年〜)から行われてきました。そこで、まずは名誉革命以前の国王の私債(Crown Debt)について整理をしてみたいと思います。
 まず、ノルマン朝最後の国王ヘンリー1世(位1100〜1135年)の時代に初めて国庫(Exchequer)が国王の財務をつかさどる正式機関として登場しました。この時代はまだまだ近代国家の先駆けみたいなものですから、国庫という概念自体が目新しかった訳です。そして、この国庫の出現とともに借り入れ方法も進化して、国王は融資を受けた際に受領書として債務割り符(Tallies of Loans)と呼ばれる木製の貸付証明(借金証文)を発行するようになりました。
 続くプランタジネット朝の国王ヘンリー2世(位1154〜1189年)は、徴税請負人が担当地区の税収を国王に前払いし、国王は税収の前受けと引き換えに徴税請負人に割符(Tallies of pro)を発行するという仕組みを採用しました。これは、国庫の側から見ると租税の先取りであり、請負人から見ると短期貸し出しを行ってその元利金の回収を税の徴収で行う権利を得るという契約になります。

徴税権をアウトソーシングして、そこから前借りする形で、国王はまとまった金を安定的に手にすることができるようにしたわけです。、国家の債務ではありますが、取立ては領民からするというシステムですね。
この時代、ヤバくなったら堂々と踏み倒したそうですからまだまだ国王の権力は大きかったようです。
しかし、その後百年戦争、ばら戦争、スペイン戦争などの戦争や内乱を繰り返すなか、国王の私財が底をつきかけたところで、名誉革命(1688年)が起こります。議会勢力によってネーデルランド(オランダ)からオレンジ公ウィリアム3世が招聘され、国王ジェームズ2世から実権を奪いました。
このウィリアム3世は政権を取ったといっても国王ではなく、自分にとっては他国の政治ですから、その国家の将来がどうなろうと関係ない話だったのでしょうか。彼はアムステルダムの金融資本家や有力商工業者、イギリスの議会に担がれ、彼らが要求する政策を実行するためにイギリスの政権を取ったようなものです。
彼は就任後まもなく、フランスとの九年戦争を開始します。
そして1694年、戦費調達のためイングランド銀行を設立するのです。このとき国債を発行して国家が恒久的に戦費を調達できるシステムが出来上がりました。
「国家が金貸しの手に落ちた」瞬間です。
『GRAND THEORY Vol.4 経済破局は来るのか?〜金貸しが創りあげた近代市場の崩壊〜』 [1]
(リンク先のページから購入できます )

[5] [6] [7]