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G20の可能性を探る G20な国々①南アフリカ第2弾

前回紹介しました南アフリカ共和国ですが、その成立過程等について、もう少し色々調べてみました。


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これはヨハネスブルグ中心部の写真。歩いている人影は皆無。自動車の数も信じられないほど少ない。
テナントが逃げ出し、ゴーストタウンのようになっているらしい。


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■南アフリカ共和国成立の歴史

 そもそもこの地域には紀元前数千年ごろから狩猟民族のサン人と、同系統で牧畜民族のコイコイ人が住んでいました。また、300〜900年代には、赤道に近い方に住んでいたバンツー系諸民族が北から移動して来ました。


 15世紀末にバスコダ・ガマが喜望峰に到達したあたりから、ヨーロッパ人による植民地化が徐々に始まります。まず、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが喜望峰を中継基地化。以後、オランダ移民は増え、ケープ植民地が成立。この植民地に形成されたボーア人(オランダ系白人)の領地拡大とともに原住民との争いも起きますが一方で彼らや奴隷との混血も進みました。


 1867年にオレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が、1886年トランスヴァール東部で金鉱が発見されると、イギリスから鉱山技師が大量に流入し始めます。イギリスはこの技師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化(この技師たちの中には、後にデ・ビアス社を創設するセシル・ローズもいた)。内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出を計画。しかしこの動きを警戒したイギリスは、トランスヴァール共和国の併合を宣言し、ボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日、ポール・クルーガーを司令官として大英帝国に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入。(第一次ボーア戦争


 第一次ボーア戦争ではイギリスを退けるも、第二次ボーア戦争ではオレンジ・トランスヴァール両国は敗北し、イギリスの手に落ちます。以降、英語が公用語になる、イギリスの司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まり、それとともに、英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになります。(アフリカーナーのイギリスに対する遺恨はこのあたりから。なにやらキナ臭くなってまいりましたwktk)。ちなみに、英国はボーア戦争に大量の人員・物資を裂かざるを得ない状況になったことが影響し、満州に影響力を強めるロシア帝国に対抗する為に日英同盟を締結したといわれています。


 1910年 4州からなる南アフリカ連邦として統合独立。大英帝国内の主権国家としてアフリカーナーの自治を確立する。その一年後、鉱山における白人・黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で一般化、白人労働者保護のための最初の人種差別法、鉱山・労働法制定も制定されます。そして、1948年に政権を握った国民党により、アパルトヘイト政策が本格的に進められるようになります。その際、アフリカーナーを支持層とする国民党は、国連の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抗議に対し反発する態度を示しました。(この背景には、ボーア戦争トラウマとも言うべきイギリスを初めとする諸外国への根強い不信感が…。全くイギリスって奴ぁ〜orz)

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白人専用ビーチの看板


1961年 イギリスの人種差別に対する非難を受け英連邦から脱退。国名を「南アフリカ共和国」に変え、共和国となる。一方で、日本は白人ではないにも関わらず白人として扱うという名誉白人とされ、南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになります。(これについては、当時正式に国交のあった台湾人や米国系黒人も同じ扱い。商談のために白人専用のホテルや事務所に立ち入りを許可する為の便宜的な措置で、名誉どころか、かなり屈辱的な地位。)


1976年6月16日 ソウェト蜂起。オランダ語系の言葉でおもにアフリカーナーが使っている、アフリカースの教育の強制に抗議する高校生たちを警察が銃撃し、128名の死者が出る。

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1991年 アパルトヘイト関連法の廃止。人種差別の法律の全廃を決定。
 
1994年 全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議(ANC)が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領にANCのターボ・ムベキと国民党党首のデクラーク元大統領が就任。イギリス連邦と国連に復帰。新しい憲法を作るための制憲議会が始まる。1996年に新憲法を採択。国民党は政権から離脱。


 以降、黒人優先の逆差別による白人の国外脱出、政情不安定な近隣諸国からの難民増加などで第1弾 [5]で紹介したような「ヨハネスブルグのガイドライン」状態になってしまったわけです。



◎欧米諸国にいいように翻弄され続けてきた南アフリカですが、それも金・ダイヤモンドの世界的な産出国であったことが大きな要因です。


【るいネットより】

○アメリカ・ロックフェラー系による金市場支配 (南風小僧☆) 08/02/28※一部抜粋 [6]

●金鉱山会社支配
 南アフリカは19世紀末から20世紀初頭にかけてのボーア戦争により、イギリスの植民地となり、ロスチャイルド財閥のひとりであるセシル・ローズらが金とダイヤモンドの生産を独占した。これに対してロックフェラー財閥の影響下にあるアメリカは、「誰も声高には批判できない人権平等思想」を振り回して、白人優越主義のアパルトヘイト政策を続ける旧南アの白人政府を非難し、国際的孤立状態に追い込んだ。
そして黒人勢力の最大組織であるアフリカ人民族会議(ANC)のネルソン・マンデラ議長を出獄させ、アパルトヘイト廃止後の全民族が参加した選挙で大統領にした。

 結局、案の定、南アフリカの白人社会が政権から追放されて、アパルトヘイト(人種隔離)政策が廃止された時点で、南アフリカはアメリカの勢力下に組み入れられてしまったのである。それにより南アの「アングロ・ゴールド」(アングロ・アメリカン社)や「ゴールド・フィールズ」といった世界的に名だたる金鉱山会社の所有権は、ロスチャイルド系からロックフェラー系に移ってしまったのである。
(中略)
アメリカが、80年代、90年代に株高や債券主導の一極繁栄構造を構築していく上で、金相場を低迷させるのは重要な条件だった。また、より広い意味で米ドルが基軸通貨としての地位を守り続けるためにはやはり、金相場は低迷しつづける必要があった。
アメリカとしては、金の値段を押し下げておいてから、目立たぬように時間をかけて安値の金をなるべく多く保有するという計画で動いた。あるいは、金鉱山会社そのものの株式を握って行く策をとったのである。『「実物経済」の復活』副島隆彦




○ダイヤモンドの幻想価格の維持が、殺戮を産んでいる(渡辺卓郎)08/07/26※一部抜粋 [7]

●ダイヤモンド市場の独占体制
 全世界で産出されるダイヤモンド原石の80〜85%は、ロンドンの中央販売機構 (CSO) に集められる。この凄まじい独占体制は、デ・ビアス社の創設者、セシル・ローズによって築かれ、後にアーネスト・オッペンハイマーによって復活し、盤石なものになった。彼らの戦略は採掘から加工、販売に至るまでの全てを工程を独占し尽くし制御下に置く、というものだ。
【オンラインダイヤモンド株式会社 】

●独占禁止法と真っ向から対立するデ・ビアス社の戦略
 これらは当然、近代的な独占禁止法という枠組みでは犯罪行為に該当する。実際、1994年ではGEとデ・ビアス社はアメリカ司法省に告発され、デ・ビアス社は有罪と判断された。
オッペンハイマー会長によると、「ダイヤモンドの高価さは、物質としての価値からくるのではなく、人々の心理的な満足感に支えられている特殊な商品なので、独占禁止法の適用外」だそうだ。
【ダイヤモンドが煽るアフリカの殺戮 】

●ダイヤモンドは言い値で買わされる
産出量の1/4を占める宝石用真珠は「slight」と呼ばれる特殊な方法で売買される。これは、デ・ビアス社が販売価格と割り当て量を全て決め、買い付け業者は異議を唱えることさえ許されないというものだ。当然、廉価販売がされないよう、消費者に届く末端まで厳密な監視がされる。
 そもそも買い付け業者(サイト・ホルダー)になることすら困難な閉鎖的な世界だ。日本では田崎真珠、オリエンタルダイアモンドがサイト・ホルダーらしい。
【ダイアモンドの流通:上流での変化の兆し 】

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