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■アメリカ金融史4 暴走し始めた’70年以降

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前回「アメリカ金融史3」 [1]では、アメリカが世界の憧れであった’60年代の様子と、その後の衰退を簡単に紹介しました。
 
今回は、’70年以降のアメリカの政策をテーマにしますが、それは共和党か民主党かといった党派によって左右されるよりは、アメリカの経済状況に大きく影響を受けています。
 
そこで、’70年以降の経済状況をおさらいしつつ、アメリカの政策との関係を明らかにしていきます。
 
 
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ニクソンショック(’71)
’60年代に工業生産力により世界の覇者として君臨したアメリカですが、基軸通貨の宿命として世界市場拡大に伴いドルの流通量が増加したことと、消費体質からくる貿易赤字の拡大で、海外へのドル流出量が増加しました。
 
当時のドルは金と交換が可能(金兌換紙幣)だったため、アメリカの金が海外に大量に流出することになってしまい、’71年アメリカは金の流出を止めるため、金との交換を停止したのです。
 
 
変動相場制へ変更(’73)
’44年のブレストン・ウッズ体制で金1オンス=35ドルと取り決められ、金を介して為替相場が固定化されていましたが、ニクソンショックで金とドルの交換が停止されたため、固定相場制の維持ができなくなり、’73年に変動相場制に切り替わりました。
 
その後、’73年’78年の2度のオイルショックによって、物価が高騰。また’70年頃からの市場縮小と相まって、インフレと不況が同時に起こるスタグフレーションになってしましました。
 
 
レーガノミクス(’80)
そこで当時の大統領レーガンは、激しい軍事支出の増加と並行して減税を行う、いわゆる「レーガノミクス」という政策を採りました。その結果、高金利になりインフレは収束できたものの、毎年巨額の財政赤字を余儀なくされ、彼の任期中に累積債務は約2倍になりました。
 
 
プラザ合意(’85)
財政赤字を補うために大量の国債を発行せざるを得ませんが、金利を上げなければ誰も買ってくれません。しかし一方で金利を上げれば景気が冷え込んでしまいます。この矛盾した状況を切り抜けるために、アメリカは自国の金利を下げつつ、他国の金利も下げさせることによって、相対的な高金利を維持することで突破しようとしました。
 
また、’85年はアメリカの貿易赤字が溜まり累積債務国に転落してしまった年でもあります。アメリカは、貿易赤字、特に対日貿易赤字の是正を目的として、為替相場に国家が介入し、円高ドル安政策を採ることを一方的に決めたのです。
 
このように、プラザ合意とはもっぱらアメリカの都合で取り決めされた「合意」であり、プラザ合意による低金利政策が、日本で、金余りからバブルを引き起こすことになりました。
 
 
金融資本市場への転換(’85〜)
景気低迷の根本的な原因は、’70年からの市場縮小であり、金利をいくら下げたところで物的需要には限界があります。そこで、プラザ合意による金利引き下げ以降、物的需要にかわり市場の中心となっていったのが金融市場です。株の売買や、商品先物取引、不動産債権化、などで、サブプライムローンも金融市場で扱われる商品です。実需=実態経済を離れた金融市場のバブル化とその崩壊が今回の事態を引き起こしました。 
 
軍産複合体の暴走(’89頃〜)
金融市場と並んで、アメリカで力を持っている産業が軍需産業ですが、’91年のソ連崩壊前後から、アメリカの軍事戦略が目的を失って迷走し始めます。軍需産業の利益を守るために、アメリカはソ連に替わる仮想敵国を創る方向に梶を取ります。 
’89パナマ侵攻、’91湾岸戦争、’93イラク空爆、をはじめ、’01年には同時多発テロを自作自演しては、’01アフガニスタン侵攻、’03イラク開戦と、傍若無人ぶりは目を覆うばかりになっています。
 
 
 
’70年以降の歴史を振り返って解ることは、アメリカの崩壊は、市場の縮小という現実を直視せず、むりやりに市場拡大しようとし続けた結果だということです。
 
それにしても、なぜアメリカはそこまで市場拡大に固執しなければならないのか
ヨーロッパと比較しても、アメリカの異常さが目に付きます。
 
次回以降は、アメリカ建国にまで遡ってそのなぞに迫っていく予定です
お楽しみに

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