- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

ブロック経済前夜1 〜イギリスによる国際金本位体制の成立〜

1091441_47456195.jpg
 前エントリー [1]で書いたように、この間の経済危機に伴い、現在一部の国で経済の保護主義政策=ブロック化が見られます。
 本エントリーでは、1929年の「暗黒の木曜日」から世界恐慌に至る背景として、それ以前の世界情勢を、黒田東彦著「通貨の興亡」を引用しながら、追っていきたいと思います。
ポチッと応援お願いします


 世界恐慌は、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こったニューヨークの株式取引所(ウォール街)の株価の大暴落をきっかけとして始まりました。この恐慌は、第一次世界大戦後、アメリカの資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼしました。莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランスなども恐慌に見舞われ、恐慌はソ連を除く全世界に広まりました。世界恐慌前には、イギリス=大英帝国のポンドによるグローバル化が進行していました。そのイギリスが恐慌に巻き込まれたことで、恐慌が全世界に広がったと考えられます。
 そこで、このエントリーでは、イギリス、ポンドがどのように発展してきたのかを見ていきたいと思います。

■大英帝国の発展

 もともとイギリスは、ヨーロッパのなかでは遅れた国で、羊毛や鉱石、石炭を輸出している国であった。しかし、1776年に出版されたアダム・スミスの『国富論』が明らかにしたように、この産業革命の時期に分業体制を発展させ、原材料の輸出国から製品の輸出国に急速に変わっていった。輸出製品は、最初は毛織物であったが、そのうち綿織物、さらには鉄製品などさまざまな製造業の製品を輸出するようになっていった。
 その際に重要性を増したのが、アジアやアメリカなどのイギリスの植民地との貿易である。これらの植民地から、綿花や鉄鉱石その他の原材料、中間材を輸入し、それを製品に加工して植民地やヨーロッパに売るという加工貿易の体制が確立していく。
 そういう意味で、植民地は、この当時、非常に重要だった。この植民地の分捕り合戦にイギリスは次々に勝っていく。スペインに勝ち、ポルトガル、オランダ、フランスにも勝つ。こうした軍事的な植民地戦争の勝利が、また大英帝国の経済の強化に密接に結びついて、大英帝国の基盤はますます強くなっていった。

 さまざまな技術革新のテンポも、この産業革命期には急速に高まった。有名なジェニー紡績機とか蒸気機関、鉄道、製鉄など、さまざまな技術がイギリスで発明され、それが経済の発展を大きく促していく。このころは「産業革命」という革命をイギリスが先導し、それがイギリス経済の大発展につながっていったといえる。
 

■ロンドンが世界の金融の中心地に

 金融の発展はイギリスの産業発展よりかなり遅れていて、ロンドンがヨーロッパの金融センターになったのは、アムステルダムが金融センターとして没落していく19世紀初頭だったのではないかと思われる。
(中略)1819年に、実際上、オランダの中央銀行の役割を果たしていたアムステルダム銀行が破綻する。このような競争相手の没落によって、ロンドンが圧倒的な首位に立つことになる。
 その背景にイングランド銀行は非常に重要な役割を果たしている。イングランド銀行は、1694年に、最初は通常の商業銀行として設立された。ただ、そのときから、特別な許可を得て、国債の引き受けをするなど国とは親しい関係にはあった。当時は中央銀行というのはなく、また、次々にいろいろな銀行が設立されていった。

 このように、産業革命を契機に、イギリス及びイングランド銀行は、世界経済の中で金融の中心的役割を果たすようになっていきました。国債を引き受ける「政府の銀行」として、さらに次々に設立される商業銀行から預金を受け入れることで、間接的に「銀行の銀行」としての役割が確立していき、そして、ついに18世紀末には独占的な発券銀行になりました。
 イギリスは16世紀前半には金本位制を導入していました。紙幣の担保は金(GOLD)であることから、金の兌換の可否が財政政策上のポイントでした。しかし、16世紀後半になると、イギリスは次々と戦争に突入していきます。その結果、どうなったかというと・・・

■インフレの原因をめぐる大論争→ポンドの信任→国際金本位制の成立
 イギリスは、1775年に始まるアメリカ独立戦争、18世紀末から19世紀にかけてのナポレオン戦争など、次々と戦争に突入しました。戦費を調達するため、次々に国債を発行してイングランド銀行に引き受けてもらい、ポンドが大幅に増発されました。その結果、金兌換ができなくなり、1797年には金兌換を停止して、ポンドはフロートすることとなりました。この頃、イギリスは大幅なインフレになりましたが、この原因が、戦争にあるのか、ポンドの増発にあるのかという大論争が起きました。論争の結果、ポンドの増発がインフレの原因だということになり、ポンドの発行量を厳しくコントロールしないといけないが、そのためには金兌換を復活して、過剰なポンドの発行を防止しようということになりました。
金本位制離脱後、20年以上たった1821年にポンドは金兌換を再開しました。この結果、ポンドが信任され、国際的にもさらに使われるようになりました。19世紀の半ば以降、イングランド銀行は確固とした中央銀行になり、ロンドンは世界の金融の中心地になっていきました。その影響を受け、1873年から74年にかけてドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、スイスが、75年から76年にかけてデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、オランダが金本位制に移行していき、国際金本位制が成立しました。

■イングランド銀行によるポンド本位制の運営
 この国際金本位制の実体は、金ポンド制であり、多くの取引はポンドで行われていました。国際通貨体制は金との兌換を基礎にしつつも、実際はポンドが広く流通して国際取引を仲介しており、イングランド銀行は非常に少ししか金の準備を持っていませんでした。紙のように薄い金という意味でpaper-thinと言います。
 
「Paper-Thinってこんな感じ!?」

thin2.jpg

ロンドンの金融資本市場は、豊富なイギリスの貯蓄をもとに、世界に資金を提供していたが、景気が行き過ぎてポンドの供給が多過ぎると、内外からのポンドの金兌換請求がふえるから、紙のように薄い、わずかな金準備しか持っていないイングランド銀行は、金融を引き締める。金融を引き締めると、ポンドのマネーサプライが減って金兌換請求が減り、景気後退によりイギリスの国際収支黒字が拡大して、むしろ金準備がふえていく。そうなると、今度は反対に金融を緩和して、増え過ぎた金準備がノーマルな水準に戻っていくようにする。この国際金本位制の実体は、実はポンド本位制であり、イングランド銀行がそれを非常にうまくマネージメントしていたのである。 

 第一次世界大戦の直前には、イギリスはGDPの10%近くの経常黒字がありました。貿易収支は赤字になっていましたが、運輸大国、保険大国、金融大国であったことから、サービス収支が大幅な黒字となり、この黒字をイギリスは外国に貸し付けていたのでした。そして、それを可能にしたのが、ポンドの世界に対する信用なのです。そしてそのポンドは金に裏付けられています。世界経済の中心に位置したイギリス、ポンドによるグローバル化の進行、それが世界恐慌の下敷きとして存在したのです。そして、このポンドの強さは、世界恐慌後のブロック経済にも関係してきます。スターリング・ブロックが形成可能だったのは、ポンドの信用があったからなのです(詳細は後ほど・・・)。
 明日は、一転「ポンドの凋落」第一次世界大戦以降の世界情勢についてお送りします。

[2] [3] [4]