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ブロック経済前夜6 〜イタリア編〜

 第一次世界大戦後の各国の情勢について追及してくシリーズの第2弾は「イタリア」です。
 ブロック経済前夜4でも触れられた、ファシズムの始まりと言わている「ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ」という人物が、一労働者の息子からイタリアの独裁者へと台頭した時代について、追いかけてみたいと思います。
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↓その前によろしくお願いします。
 


 1850年代のイタリアは小国家の集まりであった。
 北部にはオーストリアが支配するヴェネツィアとロンバルディアがあり、北西部のピエモンテとサルディニア島には独立国サルディニア王国があった。
 ローマからの支配をうける教皇領は、イタリア半島の中央を横切っている。
 南にはナポリ王国とシチリアからなるナポリ王国があった。
 他にフィレンツェを中心とするトスカナ大公国、ハプスブルク家とブルボン家の支配するパルマ・モデナの両公国があった。
 1859年、サルディニア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一戦争を開始する。
 フランス皇帝ナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を取り付け、その支援のもとにオーストリア帝国を退け、一応のイタリア統一を果たした。
 1861年3月17日にイタリア議会において国王就任を宣言し、1861年から1878年までイタリア王として統治した。
 統一こそされたものの、イタリア南部の貧困層の生活が改善されないなど不満が残り、大量の匪賊(ひぞく)・移民が生み出されていった。
 また、「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアがオーストリア領土に残り、回復されざるイタリア領として第一次世界大戦まで禍根を残すこととなった。
 イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、「未回収のイタリア」に関するオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。
 しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告し、第一次世界大戦へと突入していった。
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第一次大戦後のイタリア王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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 ムッソリーニが生まれたのは、1883年7月29日、イタリアのフォルリ近郊のプレダッピオという小村で、鍛冶屋の父アレッサンドロと小学校教師の母ローザ・マルトーニの長男として生まれた。
 父アレッサンドロは熱心な社会主義者で、教養高い人物であったが、商売人としての才能に欠け、家計は苦しかった。
 1901年師範学校を卒業後、臨時教師の職に就いた時期もあったが、職を辞め、出稼ぎや浮浪者のような状況を経て、ロシアの革命家レーニンと出会い、本格的に政治運動にのめりこみ始めた。
 1904年にはイタリア社会党に入党し、やがて党内でも頭角を現した。
 党中央の日刊紙『アヴァンティ!』(前進)の編集長にも抜擢された。
 労働者運動を後押しし、階級闘争(生産手段の私有が社会の基礎となっている階級社会において、階級と階級とのあいだで発生する社会的格差を克服するためにおこなわれる闘争。)を肯定する主張をしていたムッソリーニだが、次第に「階級の破壊」から「民族的な団結が社会に階層を越えた繁栄をもたらす」と考えるようになり、民族主義的な社会主義へとその思想が変化し始める。
 ムッソリーニは戦争がイタリア人の民族意識を高めると考え、第一次世界大戦が勃発すると当初は党の方針に従って中立論を支持したものの、やがて戦争への参戦を強く主張するようになった。
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 第一次大戦で戦勝国とはなったものの、もともと資源が乏しく経済基盤が弱かったイタリアは、戦費のほとんどを外債でまかなったため、戦後莫大な債務を負って財政危機に陥った。
 また産業も不振に陥り、失業者が増大し、食料その他の生活必需品が不足して激しいインフレーションにに見舞われた。
 1919年から20年にかけて都市では労働者のストライキが激化し工場を占拠、農村では農民が地主の土地を占拠して地代支払いを拒否するなどの社会不安が増大した。

 そんな社会情勢の中で、ムッソリーニは1919年3月、ミラノで戦闘者ファッショ結成し、ストライキで工場占拠が行われた労働者運動を暴力で鎮圧した。
 戦闘者ファッショは、共産主義の進出を恐れる資本家や地主、軍部などの支持を受けて拡大し、1921年11月にファシスト党が結成された。
 1922年、ムッソリーニはファシスト党大会で政権奪取を宣言し、ローマに向かって進撃を開始し、ローマを占拠、ムッソリーニ政権が成立した。
 その後の総選挙で議会の絶対多数を握ったファシスト党は、その他の全政党を解散させ、1926年には一党独裁制を確立した。

 熱心な社会党員の息子として生まれ、気性の荒い青年時代を過ごしたムッソリーニ。彼の政治人生は社会主義者として始まり、戦闘者ファッショに至るかなり長い期間、社会党員として活動していました。
 彼が社会党を離れたきっかけは第一次大戦への参戦を主張したことにあり、自身も敢えて一兵卒として従軍しています。
 彼にとって戦争とは、利権の問題というより「国民を一つにすること」、国威掲揚に重点があったようです。

引用元:ish [1]
 ムッソリーニが社会主義から民族主義へと転換した理由は、はっきりとはわかっていない。
 しかし、イタリアという国が統一国家を目指して戦闘を繰り返す一方で、国内経済の混乱も抱え続けてきた歴史を考え、またファシスト党一党独裁制を確立した以降、労働環境の整備や失業者の救済を行って20年にわたる政権を維持したことを考えれば、ムッソリーニが目指したものは、「国民の団結と強いイタリア」であり、大衆の思いとも一致していたと想像できる。
 その後の世界恐慌が、資源に乏しいイタリアの経済状況を悪化させ、より一層国内の団結と独裁政治を強め、次の戦争へと向かっていったのである。

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