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食料自立・日本どうする! 3.敗戦時、食糧危機をどう乗り越えたのか

「食糧自立・日本どうする!」シリーズの3回目となります。
第1回は 日本人の食を充たしてきた五穀について。
第2回は お米とその取引市場/米価格動向を扱いました。
第3回は 日本の戦後食料難について考えて見ようと思います。 
 
拙筆は戦後2年目(1948年)に生まれた「団塊」世代です。
私自身は深刻な飢餓を経験したことはありませんが、幼い頃に親や祖父母から戦後の食糧不足の話をよく聞かされました。「もったいない! 御百姓さんが作った米は1粒でも無駄にしてはあかん!」と、畳にこぼした御飯は拾って食べさせられ、茶碗にこびり付いた米は番茶を注いで食べるよう躾けられた事を思い出します。 
 
「五穀」 米や麦、粟、稗、豆、さつまいも、カボチャなどを食し、自給してきた日本人は、大正から昭和初期にかけて「銀シャリ信仰」と言われる米志向が強まり、外米(台湾や朝鮮のお米)に依存するようになりました。
ところが、第2次世界大戦敗戦国となった我が国の食料事情は、戦時中以上に逼迫し1千万餓死説が流布されるような厳しい状況を迎えました。 
 
1.敗戦直後を襲った食糧危機、米の大凶作 
 
敗戦で日本は食糧供給基地であった朝鮮、台湾、満州を喪失しました。また、農業資材・農業労働力の不足、作付面積の減少などによって、国内食料生産が大減産となり、加えて国家権力の失墜、闇取引による農家からの食糧供出量が激減しました。150万人ともいわれる海外からの引き揚げ者により消費人口が増大し我が国の食糧事情は戦時中にもまして大変深刻な状況となりました。
追い打ちをかけるように、敗戦の年に強烈な自然の試練(台風)が与えられたのです。 
 
敗戦の年、大型台風が2つ日本列島を襲う。
昭和20年の夏はまれにみる冷夏となり、9月17日に枕崎台風が襲い、続いて10月9日に阿久根台風が襲来します。両台風により、九州、四国、近畿、北陸、東北地方に至る日本全土に爪痕を残す大きな被害が発生し、米収穫量は明治38年以来の大凶作となりました。 
 
senngokome.bmp 
 
明治38年の米収穫量は573万トン。昭和9年の大凶作は778万トン、昭和20年(1945年)秋の米収穫量は587万トンです。なお、21年春の麦も凶作です。 
 
  台風被害については、以下を参照してください。
  日本に大きな被害を与えた台風の一覧 [1]
  枕崎台風 [2]
  阿久根台風 [3] 
 
敗戦でボデーをボコボコ打たれ、ダウン寸前になっているところにカウンターパンチを食らったようなものです。 
 
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2.20・21年の飢餓対応、『餓死同盟』 
 
大凶作となり、食糧難の状況に拍車をかけることになりました。敗戦の年(昭和20年)の暮れから始まった食糧遅配は、21年に入ると更に深刻化し、大都市で、「米よこせ運動」が頻発していきます。
当時の食糧難の悲惨な状況を見てみましょう。
九州大分の飢餓状況を大分歴史辞典(戦後の食糧危機/佐藤節さんの文章)「食べられるものならなんでも食べて」より引用させていただきます。
リンク [4]

戦争末期からは、米・麦・さつまいも ・じゃがいもなど主食となるものをはじめ、野菜・魚・みそ・しょうゆ・砂糖まで配給であった。
食糧不足に苦しむ人々は、わずかな土地でも耕して、さつまいも、かぼちゃなどを植えた。ノビルやハコベなど食べられる野草も食卓にのぼった。
20年10月11日、別府市はドングリ食糧化の通達を市民に出した。ついで同月30日には、カヤ、アベマキ、ナラ、クヌギ、カシ、トチなどの木の実の採集通達を出している。木の実のアクを抜き、食糧にしようというのである。
20年産米の不作についで、21年産麦も不作であった。敗戦によって、海外からの 引揚げ復員 などで人口も増加した。食糧を求めて、人々は農村へ買い出しに走った。
20年11月の配給米の公定価格 は10㎏6円、統制外のヤミ米 の価格は1升(1.5㎏)120円前後、130倍以上の高値である。生きるために、着物や道具類を持ち出し、食糧にかえた。いわゆる「竹の子生活」である。しかし、苦労して手に入れた食糧も、経済統制違反として検挙、没収されることもあった。

次に、敗戦直後の食糧難の時代に「餓死防衛同盟」という自然発生的な団体の委員長に祭り上げられ、昭和21年婦人参政権ができて最初の女性代議士となった園田天光光(そのだ てんこうこう)さんのインタビュー記事から、当時の首都圏での飢餓状況を紹介します。
リンク [5]

 東京を焼け出された私たち一家は川崎の在で農家の納屋を改造して住みました。私は自分の苦悩の中に閉じこもっていましたが、終戦から1ヵ月余、たまたまラジオで復員者の嘆きや絶望の声を聞き、世の中のことに考え及ばなかった自分に気がつき、世間に目を向けました。
 
私は父を誘って上野駅の惨状を見に出かける途中、一面の焼け野原を眺め、そうだ、生き残された者は、この廃墟にもう一度、緑を生やし、街を起こさなければいけないのだと使命のようなものを感じました。 
 
上野駅は浮浪者や孤児で足の踏み場もなく、地下道には顔に新聞紙をかぶせたりした餓死者の死体が並んでいました。そこで改めて、私たちが生き延びなくては死者たちに相済まないといった気持ちになりました。

3.食糧デモ(飯米獲得人民大会) 
 
このように深刻な食糧難の状況下で、20年5月19日には、皇居前広場で、「飯米獲得人民大会」(通称食糧デモ)が25万人の参加で、敢行されました。 
 
  komedemo01.bmp
  食糧デモ 写真は(昭和毎日)より引用させていただきました。 
 
この食料デモ(飯米獲得人民大会)は、保守政権を倒し人民政府樹立につながるような動きでした。
民主人民戦線即時結成決議 
 
法政大学大原社会問題研究所「日本労働年鑑 戦後特集」から引用させていただきます。リンク [6]

民主戦線の即時結成こそは民族の破滅を救ふ唯一の道であり、われわれ勤労大衆すべてが切実に要求するところである。 
 
われわれのいふ民主戦線とは労働組合、農民組合など勤労大衆の民主主義組織を基盤としその上に立つ社、共の共同戦線を指し、その主体をなすものはあくまでわれわれ勤労大衆自身でなければならぬ。 
 
情勢は寸刻の猶予をも許さぬ。本日こゝに参集せる全勤労大衆はその総意をもって直ちに民主戦線結成準備会を組織することを要望し、強力なる戦線結成のために活発なる運動を展開せんことを期す。 
 
大会は次いで次のスローガンと上奏文を決定した。 
 
 決議
 一、欠配米の即時配給
 二、応急米の即時復活
 三、学童への給食復活
 四、妊産婦へ栄養の増配
 五、乳幼児へ即時牛乳の配給
 六、強権発動反対農民自主供出
 七、隠匿食糧の人民による摘発と管理
 八、米軍より政府に引渡された食糧の人民管理
 九、地主保有米を即時はき出させよ
 十、肥料、農具の増産と耕作農民への公正な分配
 十一、肥料、農具、農村必需品製造工場における経営の労働者による管理と経営協議会
     の確立
 十二、宮廷、貴族、特権階級、大資本家の台所の即時公開
 十三、一切の食糧を人民管理に
 十四、保守反動政府絶対反対
 十五、民主人民戦線の即時結成
 十六、社会党、共産党を中心とし、労働組合、農民組会、民主文化団体を基礎とする
     民主政府の樹立

GHQは占領当初は、日本の自主努力で乗り切れという方針を取っていました。しかし、人民政府成立の危機を感じ取り、方針を変更して日本に食糧供給を開始し、21年5月から10月に、68万トンの食糧を輸入・放出することになりました。
また、幸いなことに、21年米収穫量は、920万トンと大豊作に恵まれ、食糧危機は一息入れるのであります。 
 
4.米増産への努力(国民全体の期待を受け)、米生産1400万トンへの道 
 
昭和21年の食糧危機はなんとか乗り切りましたが、食糧不足は深刻でした。国民全体の食糧増産期待に応えたのが、以下の3点による増産努力です。
肥料の重点生産、北海道等への開拓、米収量を安定・増加させる農法の導入です。 
 
傾斜生産方式で肥料を確保する 
 
「傾斜生産方式」の個人的な勉強メモから引用させていただきます。リンク [7]

1.傾斜生産とは特定の重要産業へ資金・資材を重点的に投入して生産を行うこと。 
 
2.1946年(昭和21年)末、日本経済を緊急に回復させるため吉田内閣が決定し、片山・芦田両内閣が引き継いで実行した政策。
第二次大戦後の経済危機を乗り切るために、鉄鋼・石炭・肥料などの基幹産業へ重点的に資金・資材・労働力を投入した経済政策。
次いで一般生産財・消費財にその効果を及ぼそうとしたもの。

開拓による農用地拡大 
 
昭和21年11月、政府は緊急開拓事業実施要領を閣議決定し、開墾面積155万ha(うち、北海道70万ha)、開拓農民100万戸(うち、北海道20万戸)の5ヵ年計画を打ち出しました。 
 
農法工夫/保温折衷苗代の開発(寒冷地で安定して稲作が出来る) 
 
株式会社アスク様の「山形のお米の歴史」から引用させていただきます。リンク [8]

【米増産の救世主となった保温折衷苗代】 
 
戦後の食糧難克服に貢献した最高の稲作技術は「保温折衷苗代」とも言われています。
長野県の農家、荻原豊次が、冷害の年に、たまたま野菜温床苗代に混入した一粒のもみから成長した苗にヒントを得て考案したといわれています。
苗代を被覆する油紙はやがてビニールへと変わってゆきますが、この育苗技術は、山形県をはじめ寒冷地稲作の救世主となったのです。 
 
保温折衷苗代によって、育苗は安定化し、田植は6月上旬から5月中下旬へと早まりました。健苗早植によって、生育は早まり、稲作は一段と安定してきました。

お米が安定的に増産基調に入って行き、戦後の過酷な食糧難の危機を乗り越えることになります。 
 
 
米は1粒でも無駄にしてはあかん! 
 

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