- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

新シリーズ 『これからの消費はどうなる?』 

ドル暴落のXデーはいつか?」が世界中の関心事となり、これに端を発すると予測される経済破局が足元に迫ってきた。
そんな状況のなか、今日から始まるこの新シリーズでは、「経済学」などの観念世界から一旦離れ、身近な日々の生活実感とダイレクトに繋がる「消費意識」を切り口に、破局を乗り切るために必要な意識転換、そしてその可能性実現基盤を探っていきます。
%E8%B2%B7%E3%81%84%E7%89%A9.jpg
・・・題して『これからの消費はどうなる?』 🙄
今後、毎週一回の記事アップを目指して会員の仲間と取り組んでいきます
第一回目の今日は、「お金の使い方」に焦点をあて、市場拡大にひた走った近現代の「消費意識」はどこに行きついたのか?
ここに鋭く、かつ端的に斬り込んだ「るいネット」秀作記事の紹介からはじめましょう。
続きの前に恒例の「ポチっ」と、お願いします
 


るいネット「消費の自由のいかがわしさ。」 [1]より

>お金を使う段階では、みんなが持ってない高価なものを買ったり、自分の為だけに使うのではなく、何かみんなの役に立ちそうなことやものに使ったり、期待する人を応援する為に使ったり…。 
例えどんな無駄遣いをしようとも、それが当人のお金(たとえ親の遺産で有っても)であるかぎり、他人は何も言えない。
%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%EF%BC%BF%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%93.jpg
それが市場社会の特質であり、だからこそ、より多くの金を手に入れることが価値のあることだと思い込まされてきた
%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%EF%BC%BF%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%94%BB%E5%83%8F6.jpg
しかし物が豊かになった一方で、環境破壊がこれほど進んだ今、「物を浪費する自由」などだんだん認められなくなりつつある。
%E3%82%B4%E3%83%9F%E3%81%A8%E3%83%96%E3%83%AB.jpg
自分のお金だからと、多くの物を贅沢に(=無駄に)使うことが評価される(許される)ことはもう無い。
「お金をどのように使ったのか。身の回りの物をどのように使っているのか。」
これからは金をどれだけ稼いだかだけでなく、その金をどのように使ったのかという消費のあり方も評価の対象に成っていくだろう。
 
生産と消費の全て、つまり生き方そのものが問われていく、当たり前といえば当たり前の状態に戻っていくのだと思う。
%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5.jpg

1980〜90年代のバブル経済とその崩壊、95年の銀行合併や97年の山一証券倒産、そして大蔵官僚の不祥事など、これまでの「市場拡大」路線の閉塞は、誰の目にも明らかになった。これまで多くの人が物的豊かさを求めて私権(お金や地位等)に収束した時代がついに、終焉したとも云える。(構造的には、高度経済成長期を経て「豊かさ」を実現した1970年が、その大転換の起点といえる。)
そして、『モノから心へ』といったキャッチコピーとともに、人々の「消費意識」も転換してゆく。
なりふり構わず従米路線をひた走った小泉が登場したのは01年。その政策が悪しき格差社会の歪みを生みだし、先日の自民大敗北を招く火種となるが、06年には、古来から日本人の美徳として備わっていた意識である『もったいない』を掲げた嘉田氏が滋賀県知事に当選を果たした。
そして昨秋のリーマンショック以降続く金融危機を経た今、『節約』志向がはっきりと顕在化してきている。
上記で紹介した記事は02年のものだから、7年も前に時代の潮流を的確に捉えていたのだ。
まさしくタイトルのとおり、「消費の自由」を求めても充足を得られないことに人々は数年前から気付きはじめ、いまや自らの消費を見直すだけでなく、周りの消費行動を評価するまでになっている。
かつての「個人のための消費」から、「“みんな”“社会”にとっての消費」へと、その意識は急速に転換中なのである。
破局を控えたこれからの市場、経済、社会の動きに、この意識潮流はどのような影響を及ぼすのだろうか?それは果たして、可能性を顕在化させ、なにがしかの「実現」をもたらす「基盤」になりうるのだろうか
・・・続きは次回をお楽しみに

[2] [3] [4]