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『経済学って、本当に正しいの?』 2

『経済学って、本当に正しいの?』1 [1]で考察したように、これまでの経済学には根本的な欠陥があるのではないかという疑いがあります。
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今回はその疑問に関する問題提起の第2弾です。
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近代経済学では、「経済力が強くなること」、「高い経済成長を達成すること」、「高い生産効率を実現すること」という命題が所与のものとして、疑うを挟む余地が殆ど無いものとして扱われています
それに対して基本的な(るいネット、秀作版 [2])疑問を投げかける文章が有りましたので紹介します。
「前提を疑う」

先日、本屋に行ったところ「日本の経済は本当に強いか?」「日本の再生はあるのか?」といった類いの「経済書」が特にここ数年溢れかえっている。不況の長期化が要因なのだろう。
しかし、いずれにしてもほとんどの経済書が、経済力が強くなることが無条件に前提になっている。
このような暗黙の前提を疑うことはきわめて難しい。例えば「生産効率を高めることは望ましくない」とはよっぽどのことがないといえない。
経済成長は高い方がいい、という命題を否定するのも容易ではない。
これらの命題を疑うことは何故困難なのだろうか?
結局、「専門主義」の弊害なのだろう。つまりひとつの専門にとって望ましいことが常に社会全体、あるいは科学全体にとって望ましいとは限らないにも関わらず、そのことを「専門」の中では問題視することができないことである。
「専門」というものはできるだけ高度な価値判断を自らの中に導入することを好まない。むしろできるだけ排除しようとする。どうしてもでてくる価値判断は「与件」として処理するか、あるいは極めて自明なものとみなして改めて問おうとしない。
経済学の場合の「効率的」という価値判断も「効率的にあることが望ましい」ということはれっきとした価値判断であるのも関らず、もはや自明な前提となってしまっているのである。
しかし、それが例えば「安定」といった別の価値と対立する場合は、「効率」を自明なものとみる理由は何もない。
「専門」というものは、とりわけ社会科学の場合、通常、こうした特定の価値の選択を無意識にしているのである。
また同じように現在の主流経済学である新古典派の市場モデルでは、他人にかかわりなく自己利益(自己の効用)の最大化を追求していけば、市場メカニズムはあたかも自動調整装置のように働いて資源配分の最適化を達成できるとしている。しかし現実におこっていることは、金融自由化によって既存の規制を外して、「さあ、これからは自己責任でやりなさい」と言われても、自分の内部にある判断力など頼りにできる訳もなく、人々は「他人の期待」に決定的に依存するようになる。
株や土地の値上がり過程を思い浮かべれば、このことがよくわかる。結局他人が値上がりを期待して買うから自分も買うのである。そこには「他人にかかわりなく自己利益を追求する」という当初に設定された人間像とは全く逆の人間がいることになる。
この「専門主義の弊害」はあまりにも大きい。

もともと古典派経済学派 [3]の主張によるこの市場の自動調整装置いわゆる「神の見えざる手」が働くという理論は、1912年に始まる大恐慌でその欠陥を露呈し、代わりに近代経済学の大御所ケインズ [4]により「有効需要の創出 [5]」理論が提起され、政府による財政金融などの政策に理論的根拠を与え、一斉風靡となりました。
その後、ケインズ理論を批判しマネーサプライ重視を唱えるミルトン・フリードマンをはじめとする「マネタリスト」 [6]が登場し、サッチャー主義やレーガン主義に理論的根拠を与えました。
またその一方、裁量的な財政・金融政策の有効性を示そうとする「ニューケインジアン」が登場したりと一見、人々の複合的な経済活動を、高尚な理論の基に論拠付けることに経済学は貢献してきたと一般には思われています。
しかし、そんな近代経済学の行き着く先が今回の「リーマンショック」に始まる世界同時金融崩壊であり、世界中の実体経済をも破綻させようとしている。産業革命以来の近代経済学とは一体何のために存在したのかという、大いなる疑問に当ります。
市場のグローバルリズムに論拠を与えた「新自由主義」も、結局は金貸しとヘッジファンドが好き勝手に稼ぐ「自由」にお墨付けを与える結果にしかならなかった。
○結果を見なくとも、ちょっと冷静に考えてみればサブプライムのような詐欺まがいの「好き勝手な自由」を野放しにすれば、今回のような大破局にいずれ陥ることは明らかです。
何故ことになったかといえば、この紹介文にあるように、「市場の自由」を疑うことを知らなかった「専門主義」の弊害であり、専門家としての前提となっている自己の観念を疑うことが出来無かったとからといえます。
☆それにしても何故、これほど市場(主義)が絶対視されるのでしょうか。

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