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『国家と市場の力関係の逆転』 2 王権を上回る力を持ったキリスト教教会、背後に金貸し登場

『国家と市場の力関係の逆転』 の2回目です。前回古代ローマ時代にフェニキア商人と貴族により、奴隷教化のためにキリスト教が広まっていく様子が分かりましたが、今回は中世ヨーロッパの状況について調べました。王権の元でキリスト教が発展し、その後王権を超えた力を持つに至ります。同時期都市商人の勃興が始まりつつあった。・・・・・
●中世、王権に庇護され国家と教会が一体化していた
ローマ帝国の崩壊時以降、フランク王国、そして中世まで、教会は世俗の王権によって庇護され、支配のために利用されてきた存在だった。王権による武力支配の時代ですが、諸侯が分立し比較的安定した時代が続く封建時代になると、次第に王権は教会の持つ共認支配力に依存していきます。

西欧中世の教会は、少なくとも11世紀半ばまでは、世俗の王権や諸侯により庇護されながら、その存立基盤を確保していた。それはいいかえれば、教会組織が、俗権の支配の道具として利用されていた、というこうとを意味する。西欧の初期中世社会で、世俗の君主は自国の教会の保護者として、みずから聖俗両方の職務を担うものであることを自認していた。
このように教会と国家が一体化した社会では、司教や修道院長などの高位聖職者は、教会の役職者であると同時に、もっとも信頼できる王の家臣でもあった。司教や修道院長は、王権から授与された膨大な寄進地からの収入を基盤として、王のための軍隊を養い、戦役では王とともに従軍した。高位聖職者たちは、祈祷と典礼を行う教会の聖職者であるとともに、諸侯としての顔をもっていたといえる。
当然のことながら司教も修道院長も、聖職者による選挙という本来あるべき方法によっては任命されず、王がみずからの意向に沿って指名する形で決められた。それはまた、西欧教会の長であるローマ教皇にかんしても同じであった。ローマ教皇も11世紀の半ばまでは、ローマ皇帝の称号を受け継いだドイツ王が、実質的に指名していた。 
「新書ヨーロッパ史 中世編」堀越孝一著より

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(ユニバーサル 新世界史資料)


●力関係の拮抗状況から生まれたキリスト教優位の状況
11世紀に入ると、王権と諸侯の力の拮抗関係、そして都市(商人)勢力の登場により、王権とキリスト教教会の関係に決定的な変化が生まれる。

教皇庁で改革の動きが一挙に表面化したのは、教皇ニコラウス2世(在位1058〜61年)の時期である。特にこの改革の機運のなかで、それまでドイツ王が指名してきた教皇の任命のあり方が、教会法上本来の方法である選挙によるものに変わる。・・・・(中略)・・・・いわばドイツ王権の弱体の時期に教皇庁は、教団の自立をめざす一連の運動を起すことになる。こうして教皇選挙の原則が定められるとともに、ローマでは教皇主催の教会会議で、俗人による聖職者任命の観衆と、妻帯する聖職者の腐敗に対して、批判の決議がなされる。それは高位聖職者の任命権を掌握していた世俗権力への宣戦布告でもあった。特にそれは、教皇庁を実質的に支配してきたドイツ王権との戦いの開始を意味していたのである。 
 (同上著より)

 
★王権からの自立を目指した教会、この動きの後押しをした勢力は誰なのか?
当時国王と対立していた、封建諸侯(貴族)と勃興しつつあったイタリア諸都市の商人と考えられます。

・・・その後、教皇側と皇帝側とは、ドイツ、イタリアの聖俗の諸侯、さらにイタリアの諸都市も巻き込みながら、全面的な対決へと至った。この叙任権闘争として知られる、グレゴリウス7世とハインリヒ4世の対立のハイライトとなったのが「カノッサの屈辱」の事件である。  
(同上著より)

 
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 (カノッサの屈辱 教皇の破門に許しを乞う王)
教皇派と皇帝派 (ゲルフ派とギベリン派)wikipedia [3]より

11世紀の叙任権闘争において、すでに教皇と皇帝の争いは始まっており、皇帝ハインリヒ4世と対立するヴェルフ5世は、教皇派のトスカーナ伯マティルデと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれはじめた。(中略)教皇の支持を求めたロンバルディア同盟などの都市がゲルフと呼ばれた。

この聖職者任命の叙任権を王から奪取することでローマ教皇は、それまでバラバラだった各地の教会を、ローマ教皇を頂点とする統一組織に再編成することが可能になり、王権から独立してヨーロッパ全体にネットワークを張り巡らした。
ここに教皇とお膝元のイタリア商人(金貸し)との連携が確立し、金貸しは十字軍資金調達・免罪符販売などを通じ教会支配を強めていくと共に、ヨーロッパ世界を動かす権限を持つ教皇といういかにも買収しやすい対象を見出したのだ。(世界を動かす現代のアメリカ大統領職に近い存在)。

※このゲルフ派の諸都市から近世・現代につながる金貸し金融勢力が派生していく。
 参照:欧州の2大支配勢力:古代ローマ以来の貴族系とフェニキア以来の金融系 [4]
●この頃の都市の状況
11世紀頃のヨーロッパでは、イタリアとフランドル地方を拠点とする2大商業圏が形成されていた。南イタリアでは、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの海港都市がビザンツ帝国やイスラム世界を相手に地中海交易で繁栄していた。北のフランドルでは、毛織物産業によりハンザ同盟の商人を取り込んで北海・バルト海交易の拠点となっていた。(イタリアの海港都市は、フェニキア商人以来の流れを汲み、ハンザ同盟はバイキング以来の交易民の伝統を持つ。)
これら南北の商業圏は内陸のフランスのシャンパーニュの大市などに物品を供給し、そこから各地への交易ルートに市場(都市)が形成されていった。
img-131005054-0001.jpg [5]
 (ユニバーサル 新世界史資料より)
★何故都市商人が力を持つようになったのか?
・・・・支配階級の宮廷(性市場)から都市が生まれた

封建時代末期に拮抗し、牽制しあっていた国王・諸侯には、欠乏という次元で共通項があった。
それは、中世の安定期に武力闘争がひと段落することで、支配階級が、性に解脱収束(堕落とも言う)し、宮廷サロンに代表される性市場に収束していった。そこでは、着飾り挑発するための宝飾や毛織物・毛皮、香料が重宝され必要になる。宮廷(性市場)にそれらの品々を売りつけるために交易市場が発達し、都市が成立していった。
●支配階級全てが貨幣・財の亡者となることで、資本力の権力化(金貸しへの力の集中)が決定づけられた!
支配階級は、これら貴重品を手に入れるための貨幣・財の虜になっていたのだ。
支配階級は、それらのために農民を限界まで重税を課し、限界まで搾り取った。その対価は、どこに支払われたのか?新興都市の商人に渡り、彼らに資力が集中していく。
このように王・諸侯など支配階級が貨幣・財の亡者となることで、都市の商人に資本が集中していき、王や諸侯・教皇から自治権を確保し、自由都市を成立させていくこととなり、都市においては有力商人が寡頭制を敷き、共和制が始まっていく。
この時点で、国家(王・諸侯)と市場の力関係の逆転は運命付けられたとも言える。

※この状況は、数百年後に都市大衆が同様に都市という性市場で、貨幣・財の虜となることで拡大再生産され、ますます市場拡大が拡大していく構造と同じ。
●支配階級が共通に望んだもの、それが交易・掠奪
1095年 教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱すると、支配階級(国王・諸侯)はこぞって賛成し、聖戦という名の掠奪に驚喜をもって乗り出していくのには、彼らが既に貨幣・財の虜になっていたという状況があった。
そして商人(金貸し)は、彼らの権力闘争を巧みに利用しながら、まず教会と結託し(十字軍・免罪符)、次に国王と結託し(絶対王政)、分断し互いに争わせながら次第に自らに都合の良い思想・制度(自由都市、近代思想、共和制→民主制)を確立させていく。
次回十字軍がどう組織され、実行されたのかについて追求したいとおもいます。

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