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国家と市場の成立→崩壊構造に迫る(4) 何をするにもお金がかかる社会

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<画像はこちらからお借りしました> [1]
前回は、市場がどのように登場し、拡大していったかについて明らかにしました。
〜市場の登場→拡大とは、すなわち大衆レベルにいたるまでの私権獲得可能性の拡大ということ。相手を騙すこともアリ、という自我意識にまみれた思考方法もセットになり、両者は相乗効果を生み、市場拡大は恐ろしいほどの勢いで加速していった。特に主役を演じたのが性的自我に基づく性幻想で、「商品」のほぼすべてが、この性幻想をバックボーンにしているといってもよいものでした。〜
今回は、今の社会が「何をするにもお金がかかる社会」になってしまった原因を明らかにしたいと思います。
現代人はあたりまえのように思っていますが、何をするにもお金が必要な社会になったのは、日本ではせいぜい150年ぐらいの歴史しかありません。
江戸時代、村落で暮らしていた農民たちは、衣食住のほぼすべてを村落内で自給していたので、殆どお金を使う必要がありませんでした。明治になって、税をお金でおさめなければならなくなって初めてお金が必要になりました。……
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それでは、<超国家・超市場論10> [2]から引用しながら、明らかにしていきます。

市場時代を通じて、市場を拡大させた主動因は、私権の強制圧力による抑圧からの解脱としての、快美幻想への可能性収束=快適さや便利さの希求である。逆に云えば、人々が私権の強制圧力からの解脱手段としての快適で便利な快美生活を手放せないことが、何をするにもお金がかかる社会が出来上がった原因である(そしてそれこそ、人々が精神を破壊し、環境を破壊して止まない原因でもある)。

このあたりの事情は前回の記事で見たところですね。自分にとっての快美充足が第一であるから、自分以外のことや環境のことなどは眼中に無くなってゆきました。

このように、市場拡大の原理的なテコとなっているのが価格格差の幻想共認だとすれば、具体的なテコとなったのは交換手段とりわけ交換取引の評価指標としてのお金の共認である。
もし、万人に共認された評価指標があれば、交換取引の成立機会は飛躍的に増大する。実際、交換の為には指標が必要⇒交換効率を上げるには普遍指標が必要という流れで、万人に共認された評価指標(=お金)が確立されたことによって、市場は飛躍的に拡大していった。
そして、いったんお金が万人の共認する最先端価値=評価指標となってしまうと、(国家によって施される場合を除いて)芸能であれ、情報であれ、全てはお金と引き換える事の出来る形に商品化しなければ供給できなくなり(∵メシが喰えない)、国家の施しの元を成す税も、お金で徴収される様になる。

お金の歴史はかなり古いわけですが、古代から近世あたりまでの時代は、お金を使うのはもっぱら支配階級などの富裕層だけで、人口の大半を占めていた農民は自給自足の暮らしの中でお金を使うことはほとんどありませんでした。
それでは、農民たちまでもがお金を必要とするようになったのはいつ頃からでしょう?
日本では、明治新政府によって実施された地租改正がその契機になりました。近代国家建設を目指した明治政府は税をお金で徴収するようになり、農民は収穫した米を売って換金しなければならなくなりました。また、税金は土地に対してかけられたため、税を徴収するために個人に土地の所有・売買を認める事になり、農民たちは両方の面から無理やり市場社会に組み込まれてゆくことになりました。
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<地租改正の風刺画>画像はこちらからお借りしました。 [3]
一方、ヨーロッパではもっと早い時期(14世紀あたり)に農民たちはお金を手にして、市場に組み込まれていったようです。市場に取り込まれたヨーロッパ中世封建領主の中で税をお金で徴収することが出始めたこと、そして、ヨーロッパを襲ったペストの流行で人口が減少したことによって農民たちの地位が向上し始め、余剰農産物を売り蓄財できるようになったことなどによって、お金を手にした農民たちが自ら市場に組み込まれていくことになりました。
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<ワットタイラーの乱>画像はこちらからお借りしました。 [4]
<参考>
地租改正のもたらしたもの [5]
貨幣(「お金」)の歴史、始まりは金 [6]
ウィキペディア「地租改正」 [7]
中世ヨーロッパの交易② [8]
中世ヨーロッパ [9]

ところが、市場(交換取引)は私権闘争を原動力としており、従って、お金が万人の評価指標として社会的に共認されたものであるにも拘わらず、それは専ら私的な充足の為にのみ使われ、社会統合の為には(国家以外)使われない。従って、市場は社会統合には、殆ど寄与しない。(そこで、もし人々が、私的な充足の為だけではなく、社会統合の為に、例えば『認識形成の場』にお金を使う様になれば、大変面白いことになる。近く、それを提起したい。)

〜お金は私的な充足のためにしか使われない。社会統合のためには使われない。〜
これは、自分自身を振り返ってみても、まさに実感できるところですね。
〜市場(交換取引)は社会統合には殆ど寄与しない〜
社会統合に寄与しないどころか、世界中を巻き込んだ金融市場が崩壊して、いまや世界恐慌を引き起こす危険度が高まっている状況です。
市場機能(民間資金)を活かした社会資本整備(PFI)などが最近もてはやされていますが、これも国家財政が逼迫しているためのものでしかなく、金融市場の崩壊によってどうなるかはなはだ心もとないものです。
一方、地域通貨、コミュニティビジネス、社会企業家、市民バンク、NPO、社会的責任投資(SRI)、などの新しい試みが広がり始めています。このような潮流の中から、次代に繋がるものが登場してくるかもしれません。
このあたりの事情は次回の記事で扱います。

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