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BRICs徹底分析〜ロシア編その4 プーチン大統領とロシアの国民意識

プーチン大統領の2期8年間の下、ロシアは国家破綻から経済・社会の再構築を果たし、大国としての自信を取り戻しました。

このプーチン大統領の政治は、欧米からは「独裁政治」、「KGB政権」とイチャモンを付けられていますが、ロシア国民は圧倒的な支持をしています。

今回は、BRICsシリーズ定番の『指導者分析』として、プーチン氏の生い立ち、KGBでの成長をみていきます。合わせて、プーチン氏を支持する「ロシアの国民性」についてもみてみます。

今回のキーワードは、プーチン氏とメドベージェフ氏が生まれ育った『サンクトペテルブルグ』です。ペテルブルグは、欧州列強に伍するまでに強大化する「ロシア帝国」を牽引したのです。

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サンクトペテルブルグの絵図(ポップアップです)。中央の川中にある出島のような場所が旧海軍造船所です。左上の隅にあるのがピョートル大帝夏の宮殿です。

1.ロシア帝国の近代化を牽引したサンクトペテルブルグ
2.KGBとペテルブルグでリアリストとして成長したプーチン氏
3.強い国家指導者に収束するロシア国民

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1.ロシア帝国の近代化を牽引したサンクトペテルブルグ
1703年から、ネヴァ川河口デルタ地帯を埋め立て、海軍基地・造船所・兵器工場を集中させた軍事都市サンクトペテルブルグをつくっていきます。

ペテルブルグはフィンランド湾に面し、バルト海につながるロシアの西の玄関なのです。

そして、北方戦争でスエーデンに勝利すると、1712年にロシア帝国の首都をモスクワからペテルブルグへ移したのです。

ヒョートル大帝は、この新都市と近代工場の建設では、オランダ人・ドイツ人等の力を活用しています。 
ヒョートル大帝の西欧社会、近代工業力・軍事力に対しての認識は、少年時代からのものです。少年時代には、外国村に入り浸り、オランダ人やドイツ人の技能者の仕事に熱中しています。そして、大使節団の派遣です。

1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートル大帝は約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らも偽名を使い使節団の一員となった。

この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていた。主にオランダのアムステルダム(4ヶ月半)とイギリスのロンドン(3ヶ月)に長期滞在し、プロイセンのケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンにも立ち寄った。

ピョートル大帝は、アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。

ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。

ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事や技術の専門家を雇い入れて、その知識をロシア人に教え込ませた。

(ウイキペディより)

オランダ、イギリスの力の源泉を肌身で感じていたピョートルが、農民帝国のロシアを、『近代軍隊』をもつロシア帝国に育てあげたのです。その具体的事業がペテルブルグの建設なのです。

開明都市サンクトペテルブルグは、近代社会としてのロシア、欧州列強の一角としてのロシア帝国の象徴なのです。

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写真左は、ピョートル大帝の青銅騎馬像(出典:ロシア・ボルガ河クルーズ(5):ピョートル大帝とサンクト・ペテルブルク [2])。右は、噴水で有名なピョートル大帝夏の宮殿(出典:サンクトペテルブルグ:エカテリーナ宮殿&ピョートル大帝夏の宮殿 [3]

2.KGBとペテルブルグでリアリストとして成長したプーチン氏

プーチン氏の略歴をみてみます。

開明都市レニングラードと安定したソ連邦で育つ少年時代

・1952年10月7日生まれ
・1960年9月小学校入学
・5年生でピオネール団に入団
・6年生でサンボと柔道を習いはじめる 
・義務教育は9年間なので、1969年9月義務教育を終了
 (専門学校に入学)
・1971年レニングラード大学入学(18歳)
・1975年レニングラード大学法学部を卒業(年齢22歳)
  指導教官は、サプチャーク助教授、専攻は、国際法
・1975年卒業と共に、KGB(ソ連国家保安委員会)に就職
・レニングラード勤務の後、1985年に東ドイツのドレスデン勤務(90年まで)

合わせて、ソ連邦の簡単な指導者交代をみてみます。

1953年 スターリン死去、フルシチョフが後任の書記長に
1962年 キューバ危機
1964年 フルシチョフ失脚、ブレジネフが書記長
1979年 アフガン侵攻
1982年 ブレジネフ死去、アンドロポフが書記長
1984年 アンドロポフ死去、チェルネンコが書記長
1985年 チェルネンコ死去、ゴルバチョフが書記長
1990年 共産党一党独裁の終焉、ゴルバチョフがソ連邦大統領
1991年 エリツィンがロシア共和国大統領
      サプチャークがレニングラード市長 ポポフがモスクワ市長

少年時代のプーチン氏は、ガキ大将だったといわれています。それが武術(サンボと柔道)を習い始め、礼と秩序に目覚めます。
父親はソ連海軍の潜水艦勤務、独ソ戦で負傷し、機械技師として鉄道工場に勤務。母親も工場労働者です。海軍都市・近代工業都市ペテルブルグ(レニングラード)の正当な家庭ですね。

小学校期は、フルシチョフ時代からブレジネフ時代への移行期です。

ソ連邦が東西冷戦時にもかかわらず、国内体制は安定していた時代です。人工衛星を米国に先んじて達成するなど、工業水準も自由主義諸国に拮抗する力をもっていた時代です。

リアリスト・プーチンを育てたKGB

KGBは、ソ連邦・ソ連共産党のエリート機関です。西側では諜報機関のイメージが強いですが、政治と社会秩序を維持する為の国家機関なのです。

KGBには、第一総局と第二総局があります。第一総局は海外担当です。海外分析と同盟国の教宣を担います。第二総局は国内担当で、政治的な部門です。そして、第一総局がKGBのエリート部門です。

プーチン氏は、最初、第二総局に配属され、レニングラード勤務でスタートします。その後、第一総局に移動し、アンドロポフ赤旗大学で、みっちりドイツ語と海外事情の教育を受け、1985年、東ドイツのドレスデンに派遣されます。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、東ドイツが消滅へ向かう1990年に、プーチン氏はレニングラードに戻ります。

そして、学生時代の指導教官であったサプチャーク・レニングラード市長の片腕となり、自由化時代のロシア政治にかかわっていきます。(年齢38歳です。) 
モスクワに移ってからは、エリツィンの意を汲んで、古い権力組織であるKGB第二総局(国内保安庁)を解体します。
プーチン氏は、ソ連邦のエリート組織であるKGB時代の15年間に何を学んだのでしょか?

レニングラードは西欧世界に開いた都市ですので、国内勤務とはいえ、海外事情も含めたKGBの仕事だったと推察されます。そして、第一総局への移動、ドレスデン勤務の5年間です。

開明都市ペテルブルグ(レニングラード)、海外事情をリアルに見る第一総局、そして弱体化しつつある東ドイツのドレスデン勤務とつないでいくと、プーチン氏には、ソ連邦の欠点(持続の不可能さ)と西欧世界の現実がリアルに見えてきたのだと想像されます。

このリアリスト・プーチン氏が、2000年にロシア大統領に就任します。年齢48歳ですね。

プーチン氏の語録の中に、次のものがあります。『ソビエトが懐かしくない人には心がない、ソビエトに戻りたい人には脳がない』
前半は、少年時代の充足感が基盤となり、後半はリアリストの面目がでていますね。

3.強い指導者に収束するロシア国民

プーチン大統領への圧倒的な支持は、ロシアの国民性に根ざしているように思います。
愛国心、強い国家指導者への待望、そして共同体意識です。

『ロシア人と接するにあたって−ロシア人の特徴と国民性』(住友商事総合研究所、イワン・ポクロフスキー氏)から紹介します。 リンク [4]

外敵との戦いの歴史 
 
ロシア史は外敵との戦いの歴史と言っても過言ではない。
300年にわたるモンゴル・タタル支配からの解放のための戦いに始まり、東欧から進出した十字軍との戦い、ポーランドとの民族戦争、ナポレオンの侵攻、ドイツとの祖国防衛戦争といった外敵との多くの戦いがロシアにはあった。 
 
その結果、ロシア人は愛国心の強い民族になったとともに、指導者が発揮する強いリーダーシップへの憧れを持っている。

広大な土地と厳しい気候条件 
 
ロシアの土地は限りなく広く、気候は厳しい。この点がロシア人に与えた影響は、上述の2点(外敵との戦い、農民社会)と同様か、それ以上に大きい。 
 
広大な土地で厳しい気候条件の中では1人では生きていけない。このため、地域共同体を作り共同体の仲間と力を合わせ、働く必要があった。 
  
同時に、広大な土地の所有によって他民族にないロシア人特有のスケール感と心の広さが生まれた。

強い国家指導者への待望、その期待に応えていったのがプーチン氏だといえます。

ロシアの強い指導者は、大きな熊のイメージですね。歴代の指導者の身長を調べてみました。
ロシア帝国時代の強い指導者の二人は、いずれも大男です。イワン雷帝は、身長180cm。ピュートル大帝は、なんと身長2メートルを越す大男です。
 
対して、ロシア革命を指導したレーニンは、身長157cmの小男。偉大なる指導者といわれたスターリンも163cmと小柄です。 
 
エリツィン氏は、身長189cmの大男です。対してプーチン氏は168cmとロシア人としては小柄なのです。だから、プーチン氏は体を鍛え、補っているのですね。

 
 
次回は、プーチン・メドベージェフ両氏が率いるロシアのこれからをみてみます。 
 

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