- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

シリーズ 認識形成の場が国家と市場を超える(3)〜『新しい社会統合機構が、国家機関を吸収・解体する』

『認識形成の場が国家と市場を超える』3回目です。
まずは応援のクリックをお願いします!
%E8%B7%B3%E8%BA%8D.bmp


ありがとうございます。
それでは超国家超市場論17 新しい社会統合機構が、国家機関を吸収・解体する [1]より引用しながら、現在の社会状況を分析していきましょう。
この超国家超市場論17 新しい社会統合機構が、国家機関を吸収・解体する [1]は約10年前にかかれたものですが、現在の状況を見事に予測しています。 

市場は、社会を統合する機能を持ち合わせていない。従って、現在でも国家が社会統合の機能を担っている。国家と云っても掴み所がないが、その実体は官吏をはじめ、国家によって肩書きを与えられた学者や教師や弁護士や税理士etcの統合階級が棲息する場or機関と考えれば良い。

まずは、『国家』というおぼろげな概念をここ で固定しましょう。

しかし、市場社会では、お金こそが評価指標(=最先端価値)で、それが圧力源=活力源ともなっているのに対して、国家や国家によって与えられた身分は人々の評価指標でも活力源でもない。ただ、暴力装置(軍隊・警察)付きの圧力源として機能しているだけであるのに、なぜ国家(や身分)が未だに統合機関なのか?

『末は博士か大臣か』 『故郷に錦を飾る』
といった言葉が、確かに30年前くらいにはありました。
これらは、 『近代社会は、豊かさ期待という一つの社会意志によって突き動かされてきた。』 [2]という史実を示すものです。
大衆は、この社会意志に突き動かされて、世のため人のため、また同時に自分や自らの家庭のために邁進していたということになります。
なので、『豊かさ』が実現されるやいなや、モチベーションは急落
大衆心理は、国家や国家から与えられる身分から遊離してゆくのです。

それは、社会の統合の必要(実体的には私権闘争や掠奪闘争の統合の必要)は誰もが認めざるを得ないことであり、市場が統合機関になり得ない以上、国家を統合機関として存続させるしかないからである。

豊かさが実現されても、私権闘争や掠奪闘争は細々とはいえ残り続けます。
各種の犯罪や、企業の寡占などがこれにあたり、国家=統合階級はこれを抑止する存在として存続し続けようとします。
私権華やかなりし時代にくらべると、その必要度は激減しているはずですが、しかしそれでは困るので、統合階級側はマスコミを使ってあたかも犯罪が減っていないかのように喧伝、自らの存在意義を主張します。
さらに彼らのもうひとつの存在基盤である市場、この延命措置が彼らにとって2重の恩恵をもたらします。
市場のムリヤリ拡大によって社会にひずみが生じ、これがもとで犯罪や混乱が生まれるからです。
派遣切りが遠因となった秋葉原無差別殺人事件がその事例であり、こうした事件は枚挙にいとまがありません。
市場ムリヤリ拡大をやめ、その資金をまっとうに使用すれば、今起きている犯罪は劇的に減るはずだと思いますが、どうでしょう?

つまり、国家の主柱を成す力の序列⇒身分制度が表面上は無くなっても、他に代わるものがないので、これまで社会を統合してきた国家機関を、人々が仕方なく統合機関として共認することによって、統合機関としての面目を保ち、今も社会を統合しているに過ぎない。(注:国家機関の実体は上記の統合階級であり、その意味では、身分制は決して全面解体された訳ではなく、最後の身分は温存され続けている。)

大衆から見ると、国から与えられる評価=身分制度にはまったく魅力はなくなりますが、しかしその一方では、最高身分=特権階級だけは温存されつづけるという、2重構造になっているというのが現代社会の姿なのです。
               2%E9%87%8D%E6%A7%8B%E9%80%A0.jpg
画像はこちら [3]よりお借りしました。

    kensatsuplate20070501.jpg
しかし、私権闘争が終焉を迎えつつある今、私権闘争の止揚・統合体である国家も終焉の時を迎えざるを得ない。何ら万人の活力源とは成らず、(他に変わるものがないので仕方なく統合機関として共認されているのを良いことに)一方的に税を徴収し、従わなければブタ箱に放り込む圧力源としてのみ働く国家と言う存在は、時代のはざまに取り残された極めて異常な存在であり、本当は単なる過去の遺物に過ぎない。

こうして、特権階級の世界と大衆の世界の断絶は拡大してゆきます。
                  %E6%96%AD%E7%B5%B6.jpg画像はこちら [3]よりお借りしました。
特権階級の行動はマッチポンプとなり、さらに大衆のチェックも働かなくなっているので、当然のように暴走し始めます。
                  %E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97.bmp画像はこちら [3]よりお借りしました。
「特権階級の空中浮遊」として、昨年のなんでや劇場でも扱われましたね。
特権階級の空中浮遊とは、どういうことなのか?(1)〜特権階級の世界と大衆の世界の断絶と接点 [4]
特権階級の空中浮遊とは、どういうことなのか?(2)〜戦後日本の意識潮流とマスコミの第一権力化 [5]
「特権階級の空中浮遊とは、どういうことなのか?(3)〜小泉・中曽根元首相の共通点と電通によるメディア支配」 [6]
「特権階級の空中浮遊とは、どういうことなのか?(4)〜「輸血経済(自由市場の終焉)と失われた40年」 [7]
事実、去年あたりから特権階級(特に検察)の暴走が誰の目にもあきらかになってきました。
にもかかわらず、あの手この手で正当化しようとするマスコミや御用学者の姿は滑稽でしかありません。
                  %E6%BB%91%E7%A8%BD%EF%BC%92.jpg画像はこちら [3]よりお借りしました。

従って、もし万人参加の認識形成の場(統合サイト)を中核とする新しい社会統合機構が作られ、それが統合機関として人々に共認されれば、国家は簡単に廃止(=新しい統合機構に吸収)されることになる。その際、大幅な人員の入れ替えが発生することは、云うまでもない。むしろ、全ての公務は半専任化=副業化されることになるだろう(実現論0_7_03,実現論0_7_04 [1]参照)。

今日見ていったように、現在の国家がやっていることのほとんどが無駄なのです。
よって私権に代わる、新たな活力源をもとにした社会統合機構が求められるのは必然になってきます。
新たな活力源とはなんなのか?
これからはどのような社会統合システム、公務が必要になってくるのか?

このあたりを次回で扱ってみたいと思います。

[8] [9] [10]