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「国家債務危機」〜ジャック・アタリ氏から21世紀を読み取る2

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(画像はコチラ [1]からお借りしました)
先進国の借金、どれいくらかご存知でしょうか?
日 本: 870兆円
米 国:1200兆円
英 国: 200兆円
ドイツ: 240兆円
どの国も巨額の債務を抱えています。これが会社だったらとっくに倒産しているレベルです。
会社なら経営者に経営責任が問われますが、国の場合、借金を決めた政治家にその責任は問われません。その返済は、社員なら負うことはありませんが、国民はそれを負うことになります。ただし、取り立て屋が家に来ることはないので危機感は薄いですが。。。
国家は一体どうしてここまで借金を膨らませてきたのか?膨らませることが可能だったのか?そもそも国の借金って一体どのようにして始まったのか?
まずは、ジャック・アタリ氏の著書「国家債務危機」の第1章『公的債務の誕生』から紐解いていきましょう。
その前に、応援よろしくお願いします 😉


①始まりは個人の借金 

 紀元前5世紀には、スパルタと同盟都市国家の指導者は、アテナイとの間で発生した紀元前431年のペロポネソス戦争の際に、オリンピアやデルポイの神殿から、軍資金を無利子で借り入れている。これらの神殿の資金の用途先は、本来であれば、信者の面倒を見ることや神殿の維持のはずであった。
 一方で、相手国のアテナイの方も、この戦争で次第に弱体化し、神殿から資金を借り入れなければならなくなった。紀元前426〜紀元前422年において、アテナイの指導者は、アテーナー・ポリアス神殿、アテーナー・ニーケ神殿、アルテミスの祭司、さらに外国の宗教権力者とも融資契約を交わし、そのうえ自国民からも私財を借り入れるために、あらゆる名誉と引き換えに資金調達した。この費用がかさむ戦争がきっかけとなり、アテナイの黄金時代は幕を閉じた。

 軍資金を用意するために、都市国家の指導者が個人で借金していました。その借金を返済するためには戦争での勝利が必要でした。このような悪循環が国家を滅ぼすことに繋がっていきます。
②君主の死とともに消滅した公的債務

主権者(ソブリン)に対する貸し手とは、相変わらずユダヤ人だけであった。ユダヤ人は、その国への滞在権を得るために貸金の継続を強制されたが、君主が将来的にも借り入れを必要としない場合や、君主がユダヤ人の財産を一気に没収した方が有利だと判断した場合には、君主は容赦なく彼らを国外へ追放したのである。(中略)ユダヤ人が貸した金は、君主個人の債務であり、君主の死とともに債権は消滅したのである。

個人と個人の間での借金では、債務者が死んだら借金はチャラになっていたのです。金の貸し手は主にユダヤ人でした。貸したお金が必ずしも戻ってこないという不安定でリスクの高いことに対して、どうしたらこのようなリスクを回避できるのだろうかと、当時のユダヤ人たちは考えたに違いありません。
③債務の継承のはじまり

12世紀末、イギリスにおいて、主権者(ソブリン)個人の死によって債務が消滅するのではなく、次の主権者へと継承していく債務(ソブリン債務)というシステムが、歴史上初めて登場した。ただし、これは宗教団体の債務であり、国家の債務の継承は、これよりかなり後の話となる。(中略)1205年、修道院は、民事裁判を行なう訴訟費用を工面するために、ローマの商人と二つの金銭貸借契約を結んだ。一つは、大修道院長個人が債務者となった400マルク金貨の借金で、もう一つは、修道院が債務者となった500マルクの借金であった。後者は個人への貸し付けではなく、記録に残っている中では、史上初の団体に対する貸し付けである。

個人と個人の間の借金から組織と組織の間の借金になったことで、債務が継承されるようになります。それは、個人の存命期間より組織(家も含む)の存在期間の方が長くなってきたからでした。
④史上初の「国債」と「公庫」

 8世紀の中頃、税収が不足したイタリアの主な都市国家(ベネチア、フィレンツェ、ジェノバ)の主権者(君主や海運業者)は、軍資金を調達するために、交易によって蓄財していた商人たちから借金をした。
 商人たちにとっては、戦争が自らの商売の利権を確保する手段でもあった。当初、商人たちは、半強制的に貸し付けを行なわされた。貸付期間は短く、金利は高利息であった。その後、貸付期間は長期化し、金利は引き下げられた。各都市国家の主権者(ソブリン)たちの徴税目的は、それまでは自らの権力を維持するためであったが、それからは、利息を支払うという目的が加わったのである。
 12世紀のイタリアの都市国家では、将来の税収を担保に入れた貸付証券が発行されていた。これこそが、債券や証券、さらに国債の起源とも言えるものである。(中略)
 ベネチア共和国の第45代の統領であり、ジェノバ共和国と激しい戦争を繰り広げたレニエロ・ゼンは、1262年、自国の借金の管理業務を「il Monte」(山)と名付けた特別機関に委託した。この名前は、借金が「山」のようにあったことによる。ベネチアに、世界初の「公庫」が誕生したのである。
 統領は、金持ちの貴族に対して、年率5%で資金を国家に貸し付けるように誘導した。ベネチア以外への投資行為は、法律で禁止された。また、利子をともなう金銭の貸し出しはキリスト教で禁止されていたため、「金利」の代わりに「補償」という言葉が用いられた。こうして、ベネチア人の私有財産のおよそ四分の一が、「最も高貴な国」とも呼ばれたベネチア共和国の債権に投資されたのである。(中略)このようにして、債務は本格的に「主権(ソブリン)」に属するものとなり、譲渡可能となった。都市国家が債務元本を買い戻さない限り、債権は金利収入を生み出しながら永続することになった。そして、フィレンツェなどでは、債権者である商人が、債務者である都市国家の権力さえ握るようになっていったのである。

 ここにおいて、初めて金貸機関(≒銀行)が創設されます。これにより、これまで不安定であった金貸し業が金貸し”システム”として機能し始めるのです。
⑤債務帳消しのために、債権者を追放・抹殺したフランス王

 1223年、資金難に陥ったフランス王ルイ8世は、自らの王国から、またしてもユダヤ人を追放し、彼らの財産を没収した。ルイ8世は、彼らの財産を没収できるのに、なぜ彼らから借りなければならないのか、と考えたのである。(中略)フィリップ4世は、債務帳消しと資産没収のために、自国の金融関係者をも、追放または抹殺している。その中には、テンプル騎士団も含まれていた。

 フランスでは、王様が債務帳消しを繰り返します。その方法は、債権者を追放あるいは抹殺するというひどいもので、これにより、外国の豪商たちはフランス王に対しては金を貸さなくなっていきます。テンプル騎士団はフランス国王をはるかにしのぐ財力を持っていましたが、フィリップ4世が、彼らによって国家が支配されることを恐れ、彼らに異端の汚名を着せ、生きたまま火あぶりにして抹殺しました。
⑥戦争による巨額債務と「国債」発行

 ベネチアに世界初の「公庫」が誕生してから1世紀近くの後、ヨーロッパ北部のフランドル地方には、新たな商人たちの都市国家(ブルージュ、ヘント、ルーベン、ライデン、アントワープ、リール)が誕生した。ここでは、公証人役場に登記されるようになった公的債務は、譲渡可能となっていた。
 ベネチア共和国は、借金の返済に特別税を充当していたが、借金が雪だるま式に増加し巨額の債務が築かれていた。そして、1340年、ジェノバ共和国との戦争のために、利回り5%の「ベネチア債」が発行された。このベネチア債は、流通市場で転売することができ、流通市場では、海運業や繊維産業の資金調達が行なわれるようになっていた。
 1343年には、フィレンツェ共和国でも、利回り5%の債権が発行された。しかし、資金不足に陥ったことから、利払いが2年間停止され、債務償還のための借り換えを余儀なくされた。借金の金利を支払うための借金という、最悪の事態を招いたのである。(中略)やがてイタリアの都市国家が、外国の債権者に対して返済できなくなると、それは外交問題へと発展した。(中略)こうして次第に、公的債務・対外債務・外交・地政学といった問題は複雑に絡み合うようになり、分けることができなくなっていったのである。

 公庫の誕生で”国”の借金になったことにより、借金の額が雪だるま式に増えていきます。そうなると、問題は国内だけでは納まらなくなっていきました。
⑦債権者を統合階級に任命

フランスの主権者(ソブリン)は、自国内の豪商に対し、ほぼ強制的に融資をさせた。例えば、シャルル5世はユーグ・オブリオから、シャルル6世はジャン・メルシエからである。これらの豪商たちは、君主への多額の融資を強制させられた。そして融資の見返りとして、オブリオは、1364年にパリ市長となり、メルシエは、1388年に王室相談役に任命された。彼らは、莫大な富と権力を誇ったが、しかしながら後には、公職を追われ、投獄され、破産することになる。主権者(ソブリン)の債権者となることはまだ、けっしてよいことではなかったのである。

フランス国王は外国の豪商から借金できなくなったため、国内の豪商から借金するようになります。その見返りとして、豪商たちは統合階級の身分を獲得していきました。
⑧議会で承認された借金

アンリ2世は、1547年に王位に就いたが、彼もまた相変わらず軍備費を調達するために、商人や大地主貴族から巨額な借金をした。こうした債権者たちは、やがて税収や融資業務を任されるようになり、王に代わって、とくに地方で関税の取り立てを行なうようになった。(中略)そして、そのすぐ後には、フランス国民の代表者たちが、”主権者個人の債務”を”主権(ソブリン)の債務”として法的に有効であることを認めることになる。これは史上初のことであった。アンリ2世が馬上槍試合で死亡すると、その妻カトリーヌ・ド・メディシスは、王位に就いた息子シャルル9世の摂政となり実権を握った。彼女は、財政難と、カトリックとプロテスタント(ユグノー)との宗教対立による混乱状況を打開するために、1560年、政府高官ミッシェル・ド・ロピタルと協力して、聖職者・貴族・平民階級の代表者からなるオルレアン三部会を招集した。アンリ2世は巨額債務(4300万リーブル)を遺したが、この三部会は、これをフランス王国の債務であると承認し、債権者を引き留めるために公的な資産の一部を返済に充てることさえ認めたのである。

フランスにおいても、借金が議会で承認されることで”国”の借金になっていきました。
いかがだったでしょうか?国家債務成立の裏で、金貸しが金融システムを構築していく土壌が出来つつある様子を見ていただけたのではないでしょうか。

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