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シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その2〜お金は、現実の必要度を測るモノサシ〜

 前回、「シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その1」(リンク)では、全く新しい場である『認識形成サイト』が、なぜ有料化されるべきなのかということを扱いました。
 今回は、有料化にあたり「お金と使う」ということが何を意味するのか?支払いを行う対象をどのようにとらえているのか?ということを扱ってゆきたいと思います。ようするにお金を使うと言う行為が人々の意識の表れでもあるんですね。
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 早速、るいネット投稿「超国家・超市場論22 お金は、現実の必要度を測るモノサシ [1]」から引用しながら考えてゆきたいと思います。
 

 では、社会空間では、何をするにもお金がかかるのは、なぜか?
 社会空間での集団間(or個人間)の関係の原基形態は、同類闘争(縄張り闘争)という闘争関係である。それに対して悲惨な掠奪闘争が象徴している様に、人々には闘争を回避しようとする適応本能が強く働くが、根が私権闘争に基ずいているが故に、それを回避する抜け道は、互いの合意に基づく取引関係しかない。
 事実、私権闘争の圧力で満たされた社会空間では、相互に現実の欠乏を充たそうとすれば(つまり、欲と欲がからめば)、奪い取るか、さもなければ取引関係を結ぶ以外にはない。(その典型が私権時代の男女関係であるが、同様に私権時代にあっては親子関係にも友人関係にも、取引的な側面がつきまとっている。)
 その結果、一歩集団の外に出れば、何をするにもお金がかかる取引社会=市場社会が出来てしまった。
 
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 本文の通り、社会空間では何をするにしてもお金がかかりますね 😥 しかし、集団の中ではどうでしょう。家庭において母親が夕食を作るのには直接お金は支払われていませんね。また、企業の中でも上司の指示で仕事をした部下に対し直接お金は支払われていません。
 これが社会空間になると、外食すれは代金を支払いますし、企業間で取引があれば商品ないし労働に対しお金が支払われます。一見当たり前の事のようですが、社会空間でなにをするにもお金がかかるのは、市場社会が拡大してきたからに他なりません。
 市場社会の拡大について復習しておきましょう。 
 

 市場時代を通じて、市場を拡大させた主動因は、私権の強制圧力による抑圧からの解脱としての、快美幻想への可能性収束=快適さや便利さの希求である。逆に云えば、人々が私権の強制圧力からの解脱手段としての快適で便利な快美生活を手放せないことが、何をするにもお金がかかる社会が出来上がった原因である(そしてそれこそ、人々が精神を破壊し、環境を破壊して止まない原因でもある)。
 (超国家・超市場論10 何をするにもお金がかかる社会 [2]

 
 
 自分で一からものを作ったりするよりはお金で直ぐに手に入った方が、断然、快適であり便利ですね。逆に快適さや便利さを得るにはお金が必要ということで、私権(物、お金、地位等)が人々の最大の活力源となって来たのが私権時代です。70年、物的飽和(ほしいものはほぼ手に入れた状態)になって、私権(物、お金、地位等)が最大の活力源にはならなくなったものの、この快美欠乏(快適さや便利さの希求)はなくならず、現在ほぼ当たり前のようにお金で物品やサービスを手に入れています。
 
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 人々がお金をつかって簡単に手に入れたいという欠乏が有るからこそ、あらゆるものが市場社会の中で商品化やサービス化されてゆき、何をするにもお金がかかる取引社会=市場社会が出来てしまったのです。
 
 このような市場社会の中で、人々はどのように「お金を使う」ということを判断しているのでしょうか? 
 
 

 実際、社会空間では、何をするにも電話代や電車代や飲食代が必要である以上、お金を使わない(社会空間での)活動など殆ど在り得ない。仲間の集いや地域の祭りさえ、お金がかかっている。
 無料のものとしては路上演技やネット上での(小説や理論の)公開などもあるが、それらは協働作業ではない。自分(たち)で勝手にやっているだけ、あるいは単に見るだけの人々=観客を求めているだけである。要するに、それらは単に収束力が弱いが故に、市場未満に留まっているに過ぎない。
 つまり、社会空間では、解脱に応える芸能や文芸さえ、評価圧力に晒され、その評価闘争に勝たなければ、誰にも相手にされない。そして、人々の欠乏を充足させ得るものだけが、商品化される。
この様に社会空間では、お金を使わないで済むのは人々が見向きもしない様などうでもいい活動だけであり、何であれ必要or有益なものは全てお金がかかるとすれば、何であれ社会空間での活動の意義は、人々が「それ」にお金を使うか使わないかで決められることになる。
 祭りであれ、集いであれ、認識形成サイトであれ、何であれその場が、社会空間において物的な快美収束と同等以上の収束力を持つとすれば、人々はその場にお金を使う。逆に、社会的ないかなる活動or場であれ、そこまでの収束力を持ち得なければ、人々はそこにはお金を使わない。だから人々がそこにお金を使うか否かが、その場or活動の収束力(≒必要度)を計るモノサシとなる。
 つまり、お金は(決して認識の質を測るモノサシなのではなく)、現実の必要度を測るモノサシとして機能するのである。

 
 
 市場社会では、あらゆる物が商品化サービス化されていますが、それは人々が欲しいと思う物でなければ、見向きもされないし直ぐに消えてゆきます。逆に必要or有益な物はずっと残り続けます。そうやって「お金を使う」という行為自体が、その商品やサービスを必要か否かというモノサシで図っているんですね。 
 必要なものには、お金が投じられ、必要無いものにはお金は支払われない。単純明快ですがわかりやすいですね。
 
 認識形成サイトも同じ事なんですね。
 必要であればお金を投じてでもサイトに参加する 😀  
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 現代の社会においては、暑ければエアコンのスイッチをピッと入れると涼しい風が吹き、またふらっとコンビニに出向けば、昼夜を問わず大概の欲しいものは手に入る。全てが水道の蛇口を捻れば水が出て、流しから水が勝手に流れていくように、只々当たり前に過ぎていく。現代社会(=市場社会)が発達しすぎたために、あまりに無圧力で、必要かどうかなんて考えずとも人々は生かされてしまっていると思います。
 
 3/11東日本大震災以降、東京電力の電力供給量が下がり、節電が叫ばれ、あらゆるところで照明・エスカレーター一部停止や営業時間の短縮等の節電が行われていますが、日常生活を行う上でエスカレーターがとまっても、照明が多少暗くても、ネオンがともっていなくても、お店が早く閉まろうとも、ほとんど影響ないというのが実感です。今まで逆に無駄な電力を使いすぎだったのでは?と言う声さえも上がっています。(ことインフラ系に関しては表面的には価格も安く、何も考えず使っていたのではないかと思います。)
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 非常事態だからこそ、必要か否かという選択に迫られる結果となりましたが、原発を始めとするエネルギー、食料品、物品、遊びなどのあらゆる場面で本当に必要か?エコだとか買い換えだとか言われているが本当にエコなのは?と言うような実質的な判断が年々加速してきています。
 
 次回は、お金を使うと言う行為にたいして、今までは「買えるか買えないか」という形で判断をしてきていましたが、今や『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来て来ています。このあたりの意識の変化を検証していきたいと思います 😀
 

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