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中国の国家と市場に潜むもの〜(3)朝貢制ってなに?

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(画像はこちら [1]からお借りしました)

こんにちは

「中国の国家と市場に潜むもの」シリーズです

戦国時代(紀元前5世紀〜前3世紀)を通して、商業を飛躍的に発達させた中国ですが、その間多数の部族による激しい部族間闘争が繰り返され、人々の安定期待から諸子百家などの思想家が登場し、中国の思想的・制度的な基盤を形作っていき、武力による制圧に対応した序列規範(ex 儒教とか)や内部統制のための法家思想が生まれました。

中国王朝は、この規範を周辺の異民族にも適用し、中国が世界の中心であり、その文化・思想が最も価値のあるものであると自負する中華思想によって朝貢制を作っていきました。

朝貢といえば、日本で有名なのは遣隋使や遣唐使ですが、今回はこの「朝貢」について追求していきたいと思います

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このシリーズのこれまでの記事は以下を参照

中国の国家と市場に潜むもの〜 プロローグ [2]

中国の国家と市場に潜むもの〜(1)戦国時代に始まった市場拡大→貨幣経済と村落共同体の解体 [3]

中国の国家と市場に潜むもの〜(2)巨大帝国「唐」の形成過程とその背景にあるシルクロード [4]

朝貢とは(Wikiより抜粋)

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主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。

・概要

王化思想を基調として周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。四夷から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すこととされ、内外に向けて政権の正統性を示すことになるため歴代中国政権はコストを払ってでも朝貢を歓迎した。

また周辺異民族と敵対関係になって軍事支出を行うよりは、朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあった。周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけであり、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になる。朝貢は中国政権にとって、優れた安全保障システムでもあった。

朝貢国から送ってきた貢物に対して回賜が数倍の価値となることが原則であり、朝貢国にとって利益となる事例が多かった。その場合、朝貢に来る使節の人員に対しても多額の褒賞金が与えられた。その費用がかさむために朝貢の回数を制限するということも行われた。

冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。

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(「図説 ユニバーサル新世界史資料 五訂版」(帝国書院)より)

●冊封(さくほう)とは

称号・任命書・印章などの授受を媒介として皇帝と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「属国」の関係)をともなう外交関係のこと。冊封を受けた周辺諸国は定期的な朝貢や中国の暦を使用することが義務付けられました。

しかし冊封は直接的な支配関係ではなく、臣下の礼をとった周辺諸国の長は王号や爵位を与えられ、その領域の支配権を認知されました。周辺諸国にしてみれば中国皇帝の政治支配を受けることなく独立国家としての内実を維持でき、中国や他の冊封国との平和的な関係性を確保する事も出来たのです。

さらにある領域に対して冊封が行われた場合,冊封を受けた人物以外の勢力が皇帝のもとに使節を派遣しても受け付けられませんでしたから,冊封を受けた人物は,中国との関係を権威の裏づけとして自らの支配力を強化することが可能となってきます。周辺諸国の首長にしてみれば,こうしたメリットがあったのです。

逆に中国の皇帝にとって、冊封は中国の普遍的支配への要求と帝国国境の防衛方法に対する承認を意味したのでした。

●周辺部族との関係

覇権争いに勝って巨大帝国を築きあげた歴代の中国皇帝を悩ませたのは、多数の周辺部族でした。中国はその領土が広大な平原で簡単に侵入できる土地柄から、常に周りの遊牧民族からの侵略や緊張圧力にさらされていました。巨大帝国にしてみれば個々の周辺部族自体はさほど脅威ではありませんでしたが、あまりにも広大な土地ゆえに周りを取り囲む周辺部族全てに対して武力で対応することは不可能でした。

しかし力の差は歴然としているので、周辺部族もおいそれと攻撃を仕掛けることはなく、また周辺部族にとって中国の高度な文明は魅力的でもありました。
そこで中国は、周辺部族に対して力の原理をちらつかせながらも力を行使することは最小限に抑え、貢物と倍返しの恩賜によってより明確な序列関係を構築していったのでした。

なお、王朝側は常に倍返しをしていますが、実質価値が常に倍以上であるとは限らず、他国からの貢物に幻想価値を付け横流しし、あたかも倍返しをしているかのように見せていた可能性もあります。これは中国という国がもともと交易に長けた遊牧民族によって形成されているからだと思われます。

●臣下の礼

冒頭の画像は、中国清朝皇帝の前でとる臣下の礼の一つ「三跪九叩頭の礼」です。

手順としては、

1.「跪」の号令で跪き、

2.「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。

3.「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。

4.「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。

5.「起」の号令で起立する。

これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」ことになります。なんとも痛々しい屈辱的な礼ですね;

●まとめ

通常、国家の成立の背景には、部族間の武力闘争が存在し、武力闘争は結果的に力の序列原理によって統合され、国家という私権序列体制が成立する形となります。

しかし、中国はこの関係を周辺国にも適用し、圧倒的な武力差と文化の差を見せつける事で、序列関係を明確にしました。それを定期的に行うことで、制度化していたのが朝貢でした。

この朝貢制は、近代に西洋がやってくるまで、東アジアの国家間の関係を秩序付けていたのでした。

次回は、この東アジアの国家間で行なわれていた「朝貢貿易」について追求します!

お楽しみに〜☆.。;+

◆参考文献◆

東アジアの歴史 その構築 ラインハルト・ツェルナー著(明石書店)

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