2011-06-16

シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その5 〜社会空間では、『現実に必要な認識』は、必然的に市場化される

今回は必要な認識がどのように市場化されてゆくのかを見てゆきましょう。
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ありがとうございます。
では
超国家・超市場論25 社会空間では、『現実に必要な認識』は、必然的に市場化される
から引用しながら進めてゆきましょう。

市場社会が拡大してきた主動因は、快適さや便利さをはじめとする快美幻想への物的な可能性収束である。それに対して、芸能や芸術や教育その他の広義の認識需要は(非物的という点で)市場の本流から大きく外れている。(注:これらの非物的需要=広義の認識需要を、類的需要と呼ぶ。)
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従ってこれらの類的需要(=広義の認識需要)は、物的な快美収束と同等以上の欠乏or収束力がなければ、市場化され得ない。逆に云えば、物的な快美収束と同等以上の収束力を持ち得た認識だけが商品化される(市場に登場し得る)。

「物的な欠乏」と「類的な欠乏」が提起されました。
文学やら音楽やら芸能やら「類的な欠乏に応えるもの」は多種多様ですが、
これらのうち、「物的」≦「類的」になりえたものが商品化→市場化される、ということです。
具体的に言うなら、書籍 やCD (類的)を買うか、食べ物 や家電製品 (物的)を買うか、ということですかね?
お金を払って。

ここで、お金が芸能や文芸や理論の評価指標ともなっているのは、生存闘争と直結した「現実の評価指標(=お金)」が万人の認めた唯一の評価指標として既に確立しており、お金を払ってでも見てくれる事が、『現実に必要とされている』ことの証しになる(従ってまた最も確かな評価の証しとなる)からである。
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あ、お金を払うということはこういう意味なのか。
確立した評価指標でもって、評価するということだったんですね。
単に買ってるだけだと思ってました

もちろん、芸人や文人の場合はお金を払ってもらえることによって、生存課題から自由になり、芸や認識の追求に専念できるという事の方が大きい。
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しかし、認識形成サイトの協働者は他に専業を持つ素人であり、夫々が『生存課題から自由な時間』(貴重な時間)を使って参加・協働する訳だから、「認識協働でお金を貰って生活の足しにする」と云うのは主動機にはならない。

お金=生活(飯のタネ)
というのがこれまでの世の中の法則です。
芸人さんや文人さんは確かにそうですね。
彼らは類的需要に応えてはいるけれども、
お金=生活(飯のタネ)という構造から脱することができていないことが注目ポイントです。
この段階での僕たちの類的需要は「しんどい毎日からの解脱」を実現するためのもので、
彼らの活動は、類的需要を飯のタネに変換するものなのです。
その場合の世の中全体は、
「物的」>「類的」 
という構造にとどまっており、それだけではしんどいので、時おり
「物的」≦「類的」 
という状態が必要になっているということになります。
なので、恒常的に類的需要が市場化されているとは言いがたいですね。
しかし、ほかに専業をもつ認識形成サイトの協働者にはこれは当てはまりません。
生活の基盤=“飯のタネ”は別にあるわけですからね。
では、彼らの動機は何なのでしょうか?
何を求めているのでしょう?

従って、『認識形成の場』が市場化される主動機は、『現実に必要とされている』証しが欲しいという一点である。
もっと突き詰めれば、その本質は「現実の評価」が欲しいという一点につきる。
だとすれば、『新しい認識欠乏は、現実の欠乏である』という事こそ、市場化が不可欠になる真の理由である。

「物的な欠乏」<<<<<<<<『現実に必要とされている証』
これなんですね
「現実の評価」とは、みんなが暮らしている社会からの評価。
すなわち、みんなの生活の役に立てているかどうか、ということが
認識形成サイトへの参加動機なのです。

いま顕在化しつつある外向収束⇒認識収束が、本当に現実的なものであるなら、それは既に飽和限界に達した物的な快美収束を上回る収束力を持つ筈であり、従って人々の認識収束に応える『認識形成の場』は、当然事業化できる筈である。
実際、事業化できれば、それでメシを喰える人の分だけ、『場』の利便性や質を高度化することが出来る。
何より、『場』が商品化されることが、人々の認識収束が本物の現実の欠乏であることの証しになる。逆に、人々に場代を払う気がないとすれば、その人々の認識欠乏は未だ現実の欲求になっていない偽物(上辺だけの要求)だという事になる。

物的欠乏が衰弱したあとは、類的欠乏が雨後の竹の子のように生起してきます。
311以降の原発に対する人々の意識がそうです。
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人々が心底で望んでいるのは安全性であり、電気をふんだんに使う贅沢な暮らしではありません。
だから、
「散らばってしまった放射能をどうする?」
「必要な電力を安全に作り出すにはどうする?」
などへと人々の意識は向かっていて、これらの答えを探索してますよね。
このように「類的欠乏」でも、
これまでの芸人や文人が受け持っていた現実の圧力から目をそむけるためのもの(娯楽や芸能)ではなく、
現実の役に立つもの(認識)に転換してきているのです。
こうして世の中全体が
「物的需要」≦「類的需要」という状態になってきます。
だから、新しい認識欠乏の市場化が現実味を帯びてくるんですね。

List    投稿者 ohmori | 2011-06-16 | Posted in 未分類 | 1 Comment » 

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コメント1件

 ireland hermes | 2014.02.01 5:48

hermes geldb?rse 金貸しは、国家を相手に金を貸す | 近代市場の成立過程(7)〜大航海時代を実現した金貸したち〜

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