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シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その6 〜現実の認識欠乏と非現実の認識欠乏〜

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それでは、今回は、現実の認識欠乏と非現実の認識欠乏【引用 [2]】から進めてゆきましょう。
それでは、応援よろしくお願いします。

        


社会空間では、何であれ現実の欠乏に応えるものは(「それ」に対する欠乏=収束力が強ければ)、必然的に取引化=市場化される。(リンク [3]『超国家・超市場論22 お金は、現実の必要度を測るモノサシ』参照)逆に、市場化できないとすれば、その欠乏は頭の中だけの非現実の欠乏だということになる。

なるほど、ここでいう市場化とは、現実世界に登場するということなんですね。前回、物的需要、類的需要について扱いましたが、どんな需要であれ、人気のあるものや人々の役にたつものは、現実世界に登場して、必要とされるものとして、必然的に取引の対象として存在するのですね。
続きます。

実際、認識形成サイトの中には無料で数万人ものファンを集めているものもあるが、それはあくまでも非現実空間(匿名の闇空間)での人気にすぎず、とうてい現実の世間の評価を得ているとは云えない。
それは、ネット界の旧住人の認識欠乏が、決して現実の認識欠乏ではないからである。彼らの認識欠乏は現実を否定した上で成立する倒錯思考の欠乏であり、どこまでも反現実or非現実であることに意味を置いた非現実の欠乏である(リンク [4]『観念パラダイムの逆転2』参照)。
従って、何事も否定してお終いで、せいぜいが自己を正当化しorひけらかす為の認識欠乏ぐらいしか持ち合わせていない。従ってまた、本当に現実を変革する気などないので、現実を切り開く為の認識など求めたこともない。(現にその様な闇空間から、現実を切り開く様な新しい認識が形成された例しがない。)
だからこそ、ネット界の旧住人からは、未だに「認識形成サイトを有料化する」という発想が出てこないのである。(但し、るいネットが有料化の先鞭をつければ、彼らもそれに追随する可能性は充分にある。)


この投稿は、今から9年前に書かれたものです。当時は、ネットの世界といえば、どちらかといえば、社会の現実世界から隔離された世界として、普通の人はまずは実現の基盤とは考えていませんでした。
たかだか、ネットは、「無料」で「匿名」で「好きなこと」が言えるということを最大の価値として発展してきたように思います。
もちろん当時も、優良なサイトは多くの人々の訪問を経て一定の良好な人の繋がりまでは構築できたし、ネットの可能性を一部の人は感じてはいました。しかし繋がってもその先が続かないのです。
ですから、当時、自分の周りを見渡してみても、そんなネットの掲示板に積極的に活力をもって参加している人達は、ほとんどいなかったように思います。
逆に、そこに精力をつぎ込んでいる人は普通の人から見れば暇で変な人としか映らなかったように思います。
彼らは、不全だらけのはずなのに、その対象を頭の中でこねくり回して、役に立たない知識をひけらかし、日常や現実を何も変えない。当時、そのようなネットのサイトに半分嫌気がさしたものでした。
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人々の圧力源=活力源が、生存圧力から同類圧力へと移行中だとすれば(つまり、人々の欠乏が物的欠乏から類的欠乏に上昇中だとすれば)、それに応える類的な活動(or場)が、いったん市場化されるのは、必然である。


しかし現在、ネットの威力は、現実世界に肉薄して成立しつつあります。既に、ネットは、実社会とはかけ離れた趣味や解脱の領域を補完しているにすぎないツールではなくなりつつあり、頭の中をこねくり回して、無料で数万人ものファンを集めた非現実空間(匿名の闇空間)での人気のあるというサイトは勢いを消しつつあります。
反対に、現実は何か?社会を成立させている真実は何か?を追求している地震、原発、放射能、政治、経済等のサイトやブログが数多くなってきたことを見れば、それは、明らかでしょう。
そして、新しいツールとしてツイッター・ユーチューブ・ニコニコ動画等、現実世界に直結した内容を持つものが登場し、有料化されているものも出始めています。この現象は類的な活動(or場)が、既に市場化されつつあるといってもよいのではないでしょうか。
更に、続きます。

しかも、『認識形成の場』への参加は、個々人の合意に基づいて参加するという点では取引原理的な側面を残しながらも、既にその中心軸は私的合意を超えた(『みんな充足(=社会の為)の場』を構築しようとする)『みんな共認』に転換している。それに、通常の市場取引がその場限りであるのに対して、認識形成の場は恒常的に存在しており、参加者もほぼ恒常的に参加し続ける。何よりも、市場取引では人々は消費者(or観客)でしかないのに対して、『認識形成の場』に参加した人々は協働者である。


更に、これら新しいツールからの発信をきっかけとして、講演会、集会、サロン等が開催され、その活動に参加していこうという機運は高まっています。そして、今や、既存のマスコミを筆頭とした特権階級の実態は、普通の人々が中心となって構築したネットの活力にいまや完全に飲み込まれつつあります。この現象は、人々の意識が、ネットを羅針盤としながら、『みんな充足(=社会の為)の場』を構築しようとする『みんな共認』に転換している証ではないでしょうか?9年前のネット界の様相からは、いまや完全に転換し、ネット世界は進化し続けているのです。

人々が恒常的に参加し、協働して『みんな充足・みんな共認』の場を作ってゆくというこの営みは、協働原理(本源原理)の世界そのものである。つまり、認識形成の場は、私的合意に基づくという取引原理的な側面を残しながらも、すでにその本質は協働原理そのものに移行している。従って、いずれ取引原理に拘る必要さえ無くなれば、市場を超えた純粋な協働原理のまつり場へと脱皮してゆくことになる。


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そして更に進んで、ここで言う「認識形成の場」とは、人々の継続的な参加が、現実の突破口を更に見出していくことに結実します。
発信、受信する言葉や状況認識が現実の突破に結びついたという経験を、ほぼすべての継続的な参加者はみんな持てることになるのです。そして、認識形成への参加で、人々は「消費者(観客)」でもなく「要求者」でもなく、協働者として生起するのです。
そして、継続的な参加で、新しい発見や気づきを得て、より多くの成功体験を得た人々が、現実の突破口を切り開き、よりよき現実社会に実らしていく時代こそが、これからは求められているのではないでしょうか?
このような営みを持つ『認識形成サイト』が、みんなの突破口を共有し、必要とされる場として現実世界に直結して興起し続けるのも、今では、時間の問題だと感じています。
それでは、次に続きます。

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