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シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その7 〜『現実』の塗り重ね構造〜

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 前回は、現実の認識欠乏と非現実の認識欠乏とネットの世界を中心に大きく変貌を遂げていて、今後はネットの世界での現実の認識欠乏が広がってゆくと言うことを扱ってきました。
 今回は必要な認識形成サイトがどのように現実の欠乏を満たす市場システムを塗り替えてゆくのかを見てゆきましょう。
まずは応援よろしくお願いします 🙂
ありがとうございます 😀


超国家・超市場論27『現実』の塗り重ね構造 [1]から引用しながら進めてゆきましょう。

 性闘争・自我発の下部意識(本能機能・共認機能)が生み出す現実の欠乏は、私権闘争へと先端収束する。そして、その私権闘争を止揚する武力支配体制⇒次いで市場競争体制が構築され、塗り重ねられたその体制の中に全ての欠乏と充足の過程(営み)は組み込まれてきた。
 従って、私権時代を通じてこれまでに生じた自我や性や食や快美etcの現実の欠乏と充足の全ては、武力支配から市場競争へと塗り重ねられてきた現体制(国家と市場)の中に組み込まれている。
 しかし、私権時代でも、欠乏は段階的に塗り替えられてゆく。私権時代の大衆は、略奪闘争によっていったん全てを失ったドン底状態(虐殺or奴隷)に封じ込められ、武力支配末期(封建時代)にようやく生存がほぼ満たされ、市場社会末期にようやく快美・解脱が頭打ち(≒飽和状態)となった。
 即ち、まず生存(生命や飢え)が満たされて(or頭打ちとなって)、快美(快適さ、便利さ)と解脱に先端収束し、快美と解脱欠乏が満たされて(or頭打ちとなって)、ようやく人類の最先端機能たる観念機能の充足(認識充足)という先端可能性へと収束する。

時代と共に「欠乏」が塗り替えられていると言う事ですね。簡単に整理してみましょう。
略奪闘争→虐殺・奴隷⇒生存欠乏
 日本では奴隷制度はほとんどありませんでしたが、戦乱の時代で生き抜くことがやっとという時代であり、生存欠乏が第1の欠乏となる。
  ↓↓↓
武力支配⇒身分→生存充足⇒快美欠乏 
 武力支配により、身分が決められているものの、略奪等は抑制され生活は安定している状態。日本では江戸時代のようなイメージが代表でしょうか。生活は安定し、贅沢や遊びを始め文化が発達してゆき、快美欠乏が高まってゆく。
  ↓↓↓
市場社会⇒お金→快美と解脱充足(飽和状態)⇒(認識欠乏)
 市場社会に移行すると、人々は私権を獲得する手段であるお金が第1目標となる。物的な快美充足(便利さ・快適さ)と類的な解脱充足(遊興・芸能)および頭の中だけの倒錯観念(古代宗教・近代思想)が、主な充足源(欠乏)であったが、70年には物品(家、車、家電製品等)は飽和状態になると同時に倒錯観念も輝きを失った。また、近年では巣ごもり消費という言葉に代表されるように、遊びなどの解脱も失速している。要するに快美充足が満たされた状態にある。
 欠乏の変遷をダイジェストで整理してみましたが、今は、生存も満たされ快美・解脱も満たされた状態なんですね。確かに今の世の中、我々は生きることや物を手に入れること遊びに困ることは有りません。逆にそれらの商売が飽和・縮小傾向にあるのは明らかですね。
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 では、観念機能の充足(認識充足)という先端可能性へと収束するとはどういう事なんでしょうか?読み進めながら考えてみましょう 😀

 そして今、「超国家・超市場論23 [2]24 [3]」で明らかにしたように、市場という土俵の背後から、もっと基底的な『必要か否か』という判断の土俵が姿を現してきた。この真っ当な、かつ最基底の『判断の土俵』(=新しい演場)の上では、必要判断が物や解脱から認識へとシフトしてゆくことは明らかである。
 従って、外向収束⇒認識収束の潮流が生み出す認識欠乏が従来の欠乏を超えるほどの現実の欠乏ならば、当然いったん市場という土俵に乗った上で市場競争に(も)勝ち抜いてゆく筈である。そして、市場という土俵の上で古い現実の欠乏を収束力において陵駕することによって、はじめて認識欠乏が古い欠乏群を超える現実の欠乏であることが証明されるのである。
 『判断の土俵』を基礎とする演場社会では、収束力=『人数』がお金を超えた最先端の評価指標となる。しかし『人数』は過渡的な評価指標に過ぎない。演場社会の中核を成す『認識形成の場』に過半の人が収束した時、そこではもはや『人数』は(居て当り前で)評価指標たり得ず、段階的な『投稿資格』が最先端の評価指標として確立されてゆく。(但し、その『資格』の基礎に、それを評価する『人数』は生き続けている。つまり、『人数』の上に塗り重ねられる形で、『資格』という最先端指標が形成される訳である。)
 そのようにして、最終的に全ての人が認識(の必要)へと先端収束すれば、その圧力は最末端まで貫通するので、圧力源=活力源としては人々の評価共認の圧力だけで充分で(段階的な投稿資格etcの仕組みは必要だが)、最終的には取引関係は不要となり、従ってお金も不要となる。

 超国家・超市場論23・24では、「物的な豊かさ」という目標が溶け崩れて、初めて『必要か、必要でないか』という真っ当な判断基準が潜在思念の奥から姿を現し、そしてその必要か否かの『判断の土俵』が、国家と市場を呑み込み、解体し、再統合してゆくということを扱ってきました。
 
 市場において、認識生産(≒第三次産業)の比重が年々高まり、工業生産品の売れ行きもデザインなどの認識によって左右される時代に入って40年が経過しています。既に、市場における勝敗を決する第一義的な指標が価格から知名度や実績(≒充足人数・評価人数)への移行しているのは明白ですね。
 福島を始めとする東北支援目的の農産物が劇的に売れていたのは記憶に新しいですが、これも、東北を支援するにはどうすれば良いかと言う認識欠乏の一つの答え(認識)として多くの人々の共認を得た結果だと思います。
 
 観念機能の充足(認識充足)という先端可能性へと収束するということは、社会不全に対する答え(認識)欠乏を満たすという事なんですね。東北の支援なんかが良い事例だと思います。
 
 しかし、科学認識そのものが市場で取引されることはありませんよね。ある科学認識が事実に対して整合しているか、あるいは現実を切り開くものかどうかはお金では測れません。市場拡大の中後期からその原動力は科学技術だったにもかかわらず市場はその評価機能をもっていなかったのです。 
 
 だからこそ、純然たる認識の評価は「人数」が評価の指標になるという事なんですね。
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次回は、改めてなぜ市場の中(有料)で皆に認められる必要があるのかと言うところを整理してみたいと思います。
お楽しみに 😀

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