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世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く 【歴史No.3 鎖国の狙い 〜貿易を独占し、大名の経済基盤を奪った江戸幕府〜】

シリーズでお送りする「世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く」江戸編、
No.1 幕府の独占貿易 〜本当は鎖国ではなかった江戸時代〜 [1]
NO.2 金貸し(カトリック)の狙い⇔時の為政者の思惑 [2]

に続いて、今回は「鎖国」の本当の狙いは何だったのか?をお送りします。
No.1でも言及しましたが、江戸時代は長崎の「出島」を除いて海外との貿易(通商)がない、いわば鎖国状態だったと、わたしたちは学校教育で習ってきました。
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※画像は、長崎のミニ出島(模型) こちら [4]からお借りしました♪
しかし、鎖国なのに出島があったのはなぜなのか?やはり気になります。
今回は、鎖国に対する江戸幕府の真の狙いを金貸しブログらしく、経済面から明らかにしていきたいと思います。
◆1.海外貿易に積極的だった家康

鎖国というと自給自足のイメージがありますが、当時の世界は既にグローバリズムが広がりつつあり、江戸黎明期には南蛮貿易が盛んでした。鎖国→自給自足だから通商(貿易)がなかったわけではありません。
時の権力者・徳川家康も、実は貿易に積極的だったという事実があります。

秀吉の死後しばらくは家康も『朱印船貿易の利益』を『キリスト教布教の弊害(スペイン・ポルトガルの植民地政策への警戒やキリシタンの一揆勢力化)』よりも重視して、フランシスコ会に江戸界隈での限定的な布教の自由を認めていました。豊臣秀吉は1586年(天正14年)3月16日に大坂城でイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見していますが、徳川家康も1598年(慶長3)12月に、フランシスコ会宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースを伏見城で引見して各種の貿易活性化のための要請をしています。家康がヘロニモ・デ・ヘスースに要請したのは、メキシコ貿易に携わるスペイン船の浦賀(相模国)への寄港であり、恒常的なメキシコ貿易を行なうためのフィリピン総督への取次ぎでした。
家康は当時先進国であったスペインの技術を輸入するために、フィリピン総督に航海士や鉱山技師の派遣も求めており、キリスト教布教の一時的容認と引き換えにスペイン貿易の利益と先端技術の導入を図ろうとしたのでした。1592年から秀吉が始めたとされる朱印船貿易(南蛮貿易)では、マニラ(フィリピン)・アユタヤ(タイ中部)・パタニ(タイ南部)などと貿易を行ないましたが、家康は1601年の段階で制度としての朱印船貿易を確立し、マカオ・ルソン・シャム・ジャワ・中国南部・インドシナ半島など東南アジア全域で活発に貿易を行いました。海禁政策を採っていた明(中国)とは朱印船貿易を行うことができず、李氏朝鮮との交易は対馬藩の宗氏に一任されている状態でした。1635年に、日本人の海外渡航禁止令が出されたことで朱印船貿易は終結を迎えます。
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また、この貿易の実現基盤として、当時の日本の優れた造船技術が背後にありました。

徳川幕府が鎖国する以前は、日本も海洋民族的特性を持っていた。1593(文禄2)年、呂宋(納屋)助左衛門がルソン島(現フィリピン)に渡り、ルソン貿易で財を築いた話は知られている。豊臣秀吉の頃の話だ。その後政権をとった徳川家康も海外貿易を奨励し、多くの日本商人がルソン島のマニラ、安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)やフェイホ(現ベトナム、ホイアン)、カンボジヤのプノンペンやピネアール、シャム(現タイ)等へ積極的に出かけ、現地にいくつかの日本人町さえ出来た。シャムで武勇をはせた山田長政の名は良く知られている。
1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがサン・フランシスコ号で新スペイン(現メキシコ)に向けて航海中、暴風に遭い日本の房総の御宿海岸(岩和田村)に漂着した。 徳川家康に助けられたロドリゴは、9年前に同じく九州に漂着し家康に仕えた三浦按針(ウイリアム・アダムス)が家康のために新造した船、サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)で新スペインに着いた。また1613(慶長18)年伊達政宗の命を受けた支倉常長が、フランシスコ修道会宣教師ルイス・ソテロと共に、日本で造った船サン・ファン・バウティスタ号(伊達丸)に乗り、2年前に来日していた新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノを伴って太平洋を渡り、新スペイン経由スペインとローマに向った。スペイン国王に会い通商の許可を得る目的だった。この「慶長遣欧使節団」一行の一部は常長と共に新スペインからヨーロッパに渡り、スペイン国王フェリペ三世に会い、ローマ法王パウロ五世にも会った。しかし日本もキリスト教徒を弾圧し始めたから、それを知ったスペイン国王からは通商の許可が得られず、1620(元和6)年失意の帰国をした事は良く知られている。
このように、当時の日本人は200トン−300トンもある外洋航海の出来る船を造り、積極的に海外貿易に乗り出した。鎖国されるまでの約50年間に、朱印船と呼ばれ正規の貿易許可を取り渡航した日本船は合計三百数十雙にものぼった。こんな船の中には日本風の座敷が三間もあったり、十六畳の大広間や風呂を据え付けたものまであったという。日本の優秀な造船技術とそのコストの安さから、スペインなどからの買い手もついたほどだった。
日米交流 [7] より】

 
1641年の鎖国以前、というよりその直前まで、江戸幕府は積極的に貿易を行っていたのです。決して自給自足を目指して鎖国したわけではないことがわかります。※自給自足⇒⇒(可能性収束)⇒⇒鎖国 の関係ではない。
◆2.鎖国ではなく、幕府の貿易管理→利益独占が真の狙い
では、江戸幕府・家康はなぜ鎖国に至ったのでしょうか?
ここには、3つの意味があります。
 ① キリシタンの侵略防止(宗教的側面)
 ② 大名の経済的基盤を奪う
 ③ 貿易管理→利益独占

①については、前回No.2のエントリー [2] で述べたように、西国のキリシタン大名の多くが関が原では西軍(豊臣側)についたこと、宗教と経済を分離したオランダの施策が家康の思惑と合致したことが鎖国に至った要因と考えられます。
なぜ宗教/経済を分離した方が、家康にとってよかったのか?その“思惑”をもう少し具体的に見ていくことにしましょう。
元々、カトリック国のスペイン・ポルトガルがそうであったように、宗教と貿易(経済)は一体のものとして日本に持ち込まれました。
しかし、家康はここで矛盾を抱えます。海外との交渉において宗教的側面は持ち込みたくない、その一方で貿易による利益は手にしたい。
この矛盾を解決するにあたり取った政策が貿易管理だったのです。

 江戸時代の日本というのは連合国家である。「藩」というのは幕府に従ってはいるものの、一個の「国」と受け取っても問題のない性格のものである。
(中略)
すなわち、藩は一個の国家であるから、外国との交易は本来自由である。しかし、江戸幕府に従属しているという状況から幕府の命令には従わざるを得ない。実は、江戸幕府による鎖国の真意の一つめとしては、実は国内における海外貿易を出島に限定させることにより、幕府が海外貿易を独占しようとしたということにある。海外貿易は、国家に多大な利益と海外の先進技術をもたらしてくれる。これを幕府が独占することで、各藩の飛躍的な発展をさまたげ、幕府のみの強化を計ることになる。
鎖国にみる江戸幕府の真意 [8] より】

征夷大将軍になったものの、家康にとっては藩主=大名の存在が、天下統一における障害・敵であったということです。南蛮貿易によって利益を得た九州のキリシタン大名を中心として、経済的基盤を持つ大名に対し、まだまだ大名統制に気が抜けない状況だったのです。
そこでキリシタン(大名)への弾圧と併せて、その経済的基盤を根こそぎ削ぐために、貿易の利を彼らから奪う必要があったのです。
引用文にあるように、江戸は藩を一つの国家とみなした連合国家体制です。ゆえにこの藩主の貿易権を奪えば、貿易による利益を獲得できないため、大名の資本力は小さくなります。同時にキリシタン弾圧により序列秩序を揺るがすキリスト教も排除できます。目的の②です。
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※4つの窓口
この結果、貿易の利を幕府が全て手中に収めることができる。当時、長崎の出島のほかにも、日本には4つの窓口(貿易港)がありましたが、とりわけ長崎に関しては奉行を置き、江戸幕府が貿易管理→利益独占する体制を構築したのです。
言ってみれば、江戸幕府=国家が総合商社の役割を担ったわけです。
以上のように、経済的側面から鎖国を捉えると、貿易管理することで大名の経済力を奪うと同時に、貿易の利を幕府が独占するという極めて強い支配力を持つ政策となったのです(更に言えば、参勤交代によって大名に金を使わせるという二重支配構造もあります)。
もはや“鎖国”と言う言葉(概念)自体、従来の定義には当てはまらないように思えてきますね。
次回は、政治・経済といった多方面に亘った抜かりない家康の支配体制についてお送りします。
お楽しみに。

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