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世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く 【金貸し⇒中央銀行が国家に金を貸し、操り、世界を翻弄する。〜イギリス名誉革命以後の近代史 】

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<イタリア政府債の金利 推移>
先日、日本の借金(政府債務残高)が今年度末に1000兆円の大台に膨らむことが発表されました(11/22日本の政府債務残高、1000兆円の大台に [2])。相変わらず経済情勢が不安定な欧州では、財政難のイタリアがIMFの管理下に置かれ、ユーロ離脱やデフォルトの可能性まで出てきておりロイター通信 [3])、信用不安が世界に蔓延しています。
[4]
上の画像は、こちら [5] からお借りしました。
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上の画像は当ブログの 過去エントリー [7] より。
今日では“(先進)国が借金をする”というニュースやその構造を、私たちは当たり前のこととして受け入れていますが、そもそも国が借金をするその仕組みは、300年前から始まった中央銀行制度によるものです。
中央銀行制度とは?・・・(中央)銀行=金貸しが国家に金を貸す仕組みのこと。詳しくは過去エントリー [8] を参照。スウェーデン銀行や イングランド銀行 [9] がその発祥。
今回は、中央銀行の起源について歴史構造と共に紹介します。
前回までの江戸の歴史シリーズ [10]は小休止です。また再開しますのでお楽しみに!)


■国の借金はいつから始まった?

Wikipediaによれば、世界の中央銀行の総数は、1990年時点で160行を超えています。中央銀行はその国の紙幣を刷ることができ、「銀行の中の銀行」と呼ばれていますが、なぜ国家は中央銀行から借金をしているのでしょうか?

私的な借金が紀元前から行われていたのに対して、国の借金の歴史はきわめて新しい。
 戦争の勃発によって支出の増加が突如として起きるので、中世以前の国王は、平時に財宝を蓄え、戦争に際しては戦後に戦利品を分配するという方法で戦費を調達していた。ヨーロッパの国王たちは、13世紀半ばまでに借金を始めていた。戦争を行い、威信も保たねばならない国王は、たいていの場合困窮していたと見られ、借金の担保には王冠に留まらず、将来にわたってキャッシュフローを生み出す王領地、官職、徴税請負権などをあてた。
 商人への請求権は速やかに行使できたのに対して、国王が開く法廷で債権者が国王に請求権を行使することは困難であった。とくに、王位継承の際にはデフォルトが頻発した。このため、商人たちは国王への貸出には商品向け貸出よりも高い金利を求めた。
すでに12世紀半ばのイタリア都市国家では、戦争などの一時的な支出をまかなうために、議会は借金の元利支払のために将来の税収を担保に入れていた。例えば、ジェノバ共和国では議会から徴税権の預託を受けたシンジケートが、出資証券を発行していた。また、13世紀半ばには、ドゥエーやカレーで関税や物品税を担保に債券を発行し、国王に上納していたことが知られている。
 これらの税を担保とする借り入れは、国王の借金よりも信用力が高く、金利が低かった。そこで、16世紀半ばにカールⅤ世は、ネーデルラント連邦のホラントの議会に税を委譲して、議会に債券を発行させた。ただし、議会は増税に反対し歳出権を求めたので、この方法は国王の資金調達の限界的な部分に留まっていた。
「国債の歴史」覚書 [11] より)

国王が代わる王位継承の際に借金が踏み倒され=デフォルトが頻繁に起こったために、国王の借金よりも商取引=市中金利の方が安かったわけです。
イングランド銀行(中央銀行)の創設は1694年なので、既に国が金貸しから借金をする実態があったということです。
では、イングランド銀行設立の背景には何があったのでしょうか?
■徐々に衰弱していく国家権力と台頭する新勢力
イングランド銀行(中央銀行)の創設により、国家が銀行から借金をする仕組みが始まったわけですが、改めて当時の国家(イギリス)が借金をするに至った経緯をイングランドの事情も含め個別に見ていきましょう。
世界史を分かりやすくまとめてくれているサイトがあったので、そこから引用させてもらいます。

【市民階級の成長】
 ①中世末から台頭してきた、中小商工業者や独立自営農民(富農)を市民階級
 (ブルジョアジー)という。
 ②市民階級は、新しい産業を担う社会の中産的な階層であった。
 ③市民階級は、国王によって産業活動に制限を加えられることに反発した。
  →議会政治を確立、絶対主義を廃し、産業を自由に発展させようとして革命
   をおこした。
【イギリスの市民革命】
 ①1215年:マグナ=カルタ(大憲章)をジョン王に認めさせた。
   →国王の課税権の制限,教会・自由人の権利の承認 など。
 ②その後、諸侯・僧侶らは、州や都市の代表を加えて議会制度を整えるように
  なったが、絶対主義の進展とともに、議会は無視されるようになった。
 ②ジェームズ1世…エリザベス1世の後、王権神授説を唱え専制政治を行った。
  a財政危機を乗り切るため、議会(下院)を無視して重税をかけた。
  b議会の下院には中産階級(市民階級)が多く、王への反感が高まった。
 ③チャールズ1世…父のジェームズ1世と同様の政策をとった。
  a1628年:議会は「権利の請願」を可決した。
   →議会の承認なしに課税しない・法によらずに国民を逮捕しないことなど
    を国王に認めさせたが、王は約束を守らず、議会を無視して重税をかけ、
    国教を強制して、清教徒を迫害した。
  b国王と清教徒(ピューリタン)の多い議会(下院)は対立を深めた。
 ④清教徒革命(1642〜49年)
  a1642年:国王と議会派(清教徒)の間で内乱がおこった。
   →クロムウェルが率いる議会派の軍隊が国王の軍隊を破った。
  b1649年:国王チャールズ1世を処刑。王政を廃止し、共和制をしいた。
 ⑤クロムウェル独裁と王政の復活
  a革命後、クロムウェルは護国卿となり、厳格な清教徒政治を行った。
   →クロムウェルの政策はあまりに厳しく、独裁的な傾向を強めていった。
  bクロムウェルの死後、チャールズ2世のもとで再び王政が復活した。
 ⑥名誉革命(1688年)
  a王政の復活後、国王は再び議会を無視して専制政治を行い、絶対王政を強
   化した。(チャールズ2世・ジェームズ2世の時代。)
  b1688年:議会は国王ジェームズ2世を国外へ追放した。
   →嫁いでいた王女メアリとその夫であったオランダ総督オレンジ公ウィリ
    アムを迎え、国王とした。
  cオレンジ公ウィリアムはメアリとともに王位につき、ウィリアム3世とし
   て即位した。
  d1689年:ウィリアム3世は議会の決議を受け入れ、「権利の章典」を
   発布した。
  e「権利の章典」の主な内容
   1.議会の承認なしに国王は法律を廃止してはならない。
   2.議会の同意なしに課税することはできない。
    3.国王に請願するのは国民の権利である。
    4.議員の選挙は自由でなければならない。
 ⑦ジョン=ロック(1632〜1704年)…名誉革命の理論的指導者。
  a政府への支配権の委任は、人民の財産権や幸福の保障を前提とし、もしそ
   れが阻害された場合は、人民は委任した権利の返還・支配者の交代を要求
   できると説いた。
  bジョン=ロックの思想はアメリカ独立宣言にも影響を与えた。
 ⑧名誉革命の結果…国王の権力が制限され、議会政治の基盤が確立した。
  →18世紀には議院内閣制が確立し、「国王は君臨すれども統治せず。」の
   原則が生まれた。
 (議院内閣制)議会で多数を占めた政党が内閣を組織する制度。
「歴史の扉 -REKISI NO TOBIRA-」 [12] より)

[13]
  <画像は、マグナカルタが収められているソールズベリー大聖堂>
近代憲法のバイブルと言われるマグナ・カルタの注目点は、それまで絶対的な権力を持っていた国王(の勝手な行動)が、法律によって制限されたことにあります。マグナカルタへのジョン王の署名により、国王自身による課税や徴兵の権力に制限がなされる一方、商人や教会の自由な「権利」(自治権や商取引)が認めれます。
以降、常にこの「国王」と、これに対峙する形で台頭してきた「商人・市民階級(ブルジョアジー)」との間に権力闘争が生まれます。圧倒的な権力を持った絶対王政(国王の権力大)の時期もありますが、上記の流れを俯瞰すると徐々に国王の権力は殺がれ、“議会”という場を通して「商人・市民階級」側の“自由度”が高まっていることが読み取れます。
※“自由度”と書いたのは、絶対王政と異なり「商人・市民階級」側に“権力”が移行したようには見えないためです。しかし、ここが「商人」の狡猾なところで、誰もが政治・社会参加できる“民主主義”(→ゆえに国王も従え)という名目の元、商人は議会を裏で支配していったのです。
このようにして、商人→金貸しは足枷となっていた国家(国王)権力の箍を外しつつ、自らの商売領域を拡大していったのです。
■国家が財政難に陥るのはなぜか?
徐々に対立が深まる「国家」と「商人・議会」ですが決定的な違いがあります。国家権力の後ろ盾となっているのは、軍事力です。否応もない武力があってこそ、国王の命令を利かせることができます。軍事力は絶対王政の基盤なのです。
ところが、この武力、即ち軍隊を維持するためには、費用がかかります。加えて指揮系統を維持するための自身の手足となる官僚も必要です。
 <武力>     <資本力>
国家権力維持    権力維持
 のための   →  のための 
「官僚制度」  → 「重商主義」
「軍隊」       「市場拡大」 
自らの権力を維持するためには、資本力=金が必要となります。財源を確保するのに最も手っ取り早いのが、戦争(=相手国の資本を略奪する)行為です。
16世紀に貿易で優位にあったオランダに対し、1652年を第1次として、イングランドはオランダと3度(18世紀を含むと4度)の英蘭戦争 [14] を繰り広げ、また大同盟戦争 [15] ではフランスとも交戦しています。
戦費が嵩み、国家≒国王の懐事情は苦しくなり、資金不足に陥っていくという必然構造があったのです。
そんな財政難の国家に目をつけたのが金貸しだったのです。

金貸し⇒中央銀行が国家に金を貸し、操り、世界を翻弄する。〜イギリス名誉革命以後の近代史

中央銀行、その最初の実現態であるイングランド銀行の成り立ちと、背後の銀行家(金貸し)について。
「中央銀行の誕生で国は支配される立場に」 
反ロスチャイルド同盟リンク [16] より
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イギリスは当時、フランスとの長い戦争が続き、多額の戦費を必要としていた。そこで、スコットランド人のウィリアム・パターソンは、資金難のイギリス政府に、ある財政計画を提案する。「民間から120万ポンドの資金を集め、8%の利息で国家に貸し付ける」というもの。それと引き換えに、「株式会社イングランド銀行を設立し、資金と同額の120万ポンドまで銀行券(紙幣)を発行してよい」という国王の許可をもらった。同時にイングランド銀行は、政府財政の管理も任され、国債市場を整備する。
イングランド銀行設立を推進したパターソンの提案は、実に巧みだ。国王への資金提供によって特別な権力を握り、他の銀行にも強い影響力を持つようになった。
しかしイギリス国王は、本当にイングランド銀行を設立する必要があったのか。絶対的な支配者のはずが、中央銀行から借金したことで、逆にコントロールされる立場になったともいえる。ならばいっそ、国王自ら紙幣を発行すればよかったのだ。たとえば、13世紀にモンゴル帝国を治めた皇帝フビライ・ハンとその後継者は、自分たちで通貨を発行し、通貨供給のコントロールを通じて絶対的な権力を誇った。(中略)
銀行家たちは、戦争の勝敗さえ自由に操れた。それぞれの国王に軍資金を提供していた銀行家たちは、裏で通じ合い、どちらの国に勝たせるかを決めることができた。もちろん、戦争が終わったあとに、より多くの利益を与えてくれる国に加担する。負ける側の国では、銀行家が権力者を金庫に案内して「もう軍資金がありません」と空っぽの内部を見せた。無からカネを生んでいる銀行では、もともと金庫に何も入っていないのにだ。
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(引用以上)
1694年にイングランド銀行は設立された。
時の国王は、ウィリアム3世。彼は銀行家(金貸し)の支援→クーデターで即位した。名誉革命と呼ばれているが、以後金貸し(とりわけユダヤ)が主導権を握ったのだから“金貸し革命”とでも呼んだほうがよい。
この名誉革命から、イギリスは銀行家(金貸し)の支配する国になった。そして、その後のヨーロッパの戦争や革命は、イギリス(背後の金貸し)が、どの国や勢力を支援するかで勝敗がきまるようになった。さらに金貸しは、権力が安定しないほうが儲かるので、金に目がくらんだ国王や大衆を手玉にとって翻弄・操作していく“近代”という時代に突入していく。
そうして、
 ・ヨーロッパの国々は、国王と金貸しが結託した重商主義(17C〜18C)
  の時代を経て、
 ・フランス革命(18C末)etc次第に国王を放逐し、より金貸しが
  コントロールしやすい議会制・民主制へ誘導されていった。
  共産主義思想もその一環。
  (※ロスチャイルドはマルクスへ資金援助していた。)
 
 ・第一次大戦、第二次大戦で、世界に残る旧帝国(国王の権力)は一掃
  され、“民主制”へ。欧米の金貸しが中央銀行・政府とマスコミを
  通じて世界の国家(大衆)と経済を操る体制に塗り変った。
今後は?
るいネット [17] より)

[18]
       <中央銀行制度の仕組み>
以上が中央銀行の仕組みと概要ですが、その成立にはどういう思惑や政治的力学があったのでしょうか?

さて、ジェームズ2世のときに起こったのが1688年の「名誉革命」である。この「名誉革命」でジェームズ2世はフランスに亡命(追放)した。このときオランダからやってきたのがオランダ総督オレンジ公ウィリアム(オランダ名でウィレム)である(ウィリアムの妻はジェームズ2世の長女メアリー)。そしてこのウィリアム(3世)が1689年に統治者として国王となり、ケンジントン宮殿で死去する1702年まで君臨した。これにより英蘭戦争を繰り返していたオランダとは“同盟”のような関係(正確にはメアリーとの結婚からとも言える)になったが、ウィリアムの「敵」であるルイ14世が君臨するフランスとの戦いに引き込まれていくことになる。これによって戦費(借金)が増大したはずである。
フランスとイギリスの「スペイン継承戦争」や植民地アメリカ大陸での植民地争奪戦などは“ブルボン王朝と名誉革命政権との戦争”と言えるだろう。
イングランド銀行の設立は1694年であるからこのときの国王はウィリアム3世(メアリーとの共同王位)であり、イングランド銀行に発券業務=通貨発行権を与えた(特許)のはウィリアム3世である。ウィリアムはオランダとイングランドとスコットランドこれら3国の君主だったわけだが、イングランド銀行を設立したのは、初代大蔵卿チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)とスコットランド人のウィリアム・パターソンであった。チャールズ・モンタギューはニュートンの弟子であり、ニュートンが造幣局長官に就任したのはモンタギューの任命による。また、1695年にはスコットランド銀行(発券銀行)も創業している。
「灼熱」 [19] より)
 ※(海賊宣教師といわれる)「ウィリアム・パターソン」の人物像は、「政府紙幣を考えるブログ」 [20]を参照
 (中略)
イングランド銀行に発券業務などを特許したのは「名誉革命」によって成立した新王朝である。集めた資金120万ポンドを利子付きで国王に貸し付けたのであるが、貸した120万ポンドに利息を付けて返してもらうだけで済むものを、貸し付けた金額と同額の発券(貨幣=通貨発行)を許したのである。つまり「無から120万ポンドが生み出された」わけである。これは「国債」という形で米国や日本の中央銀行にも取り入れられている制度である。
(同上「灼熱」 [21] より)

イギリスでは、名誉革命でホラントのオレンジ公ウィリアムが国王に即位した。翌年の権利章典で課税には議会の承認が必要であることなど、議会による王権の制限が強化され、立憲政治の基礎が定められた。そして、国債の発行に際しては、将来にわたる利払いを担保する恒久税が創設された。ここに国王の私債の時代が終わり、国債の時代が始まった。
 国債を発行するごとに、その利子と新たな恒久税とを一対一に対応させたことによって、国債の信用が定着しはじめた。そして、国債の金利は、ウィリアムⅢ世治下の10%から、二つの戦争を経てハノーバー朝が始まる1714年には6%前後にまで低下した。
 さらに、18世紀半ばのイギリスでは、それぞれ個別の恒久税で担保された多くの種類の国債が3%利付のコンソルに統合された。これによって、国債の市場での売買が容易隣、それが国債金利の低下を促した。こうしてイギリス国債は、信用リスクがなく、流動性が高いという21世紀においても各国の国債が備えるべき基本要件を満たすようになった。
「国債の歴史」覚書 [11] より)

冒頭の事象=近代市場がマヒし始めた全ての根源がココにあるのです。中央銀行制度があるから国家は借金(国債による赤字)まみれ→ソブリンリスクを孕むのです。
そして、中央銀行制度の確立以降、300年もの間、無から金を生み出していた金貸しも、直接的な貸借よりも実態がなく、レバレッジの大きいバクチ金融経済によって自らのフィールドである市場さえもコントロールできず、市場は崩壊寸前にあります。

市場はどこまでも私権闘争の抜け道でしかなく、従ってそれ自体では決して自立して存在できず、国家に寄生するしかない。だから、市場は、云わば国家というモチに生えたカビである。カビがどんどん繁殖すれば、やがてカビ同士がくっつく。世間では、それをグローバル化などと美化して、そこに何か新しい可能性があるかのように喧伝しているが、それも真っ赤な嘘であって、市場が国家の養分を吸い尽くせば、市場も国家も共倒れになるだけである。国債の暴落をはじめ、その可能性は充分にあると見るべきだろう。
るいネット 超国家・超市場論11 市場は社会を統合する機能を持たない [22]
るいネット 超国家・超市場論12 市場の拡大限界は、国家の統合限界でもある [23]

当ブログのタイトルでもある「金貸しは国家に金を貸す」ことで、市場の住人である金貸したちは国家を凌駕してきたのです。
世界が経済危機に陥っている今こそ、この原因構造をしっかりと見極め、軌道修正していかねばなりません。
追伸:では、中央銀行制度を廃止したら、どうなるのか?どうしたらいいのか?その答えが欲しい方は・・・過去のエントリー [24] を是非どうぞ。

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