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北朝鮮、これからどうなる?① 〜傀儡政権として出発した金日成が、権力を掌握していく過程〜

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(金正日の訃報を受けて、”泣き崩れる”平壌市民)
   
12月17日、北朝鮮の金正日総書記(享年69)が亡くなったと朝鮮中央テレビが伝えましたた。死因は心筋梗塞とされています。
 
日時や死因については、諸説が飛び交っていますが、いずれにせよ指導者の交代による体制や経済の変化によって、隣国日本も少なからず影響を受けることになります。
 
今シリーズでは、「北朝鮮、これからどうなる?」と題して、朝鮮独立以降の歴史を振り返るところから始めて、どうやって国際社会の中で立ち回ってきたのか、国民生活はどうなっているのかなどを明らかにしつつ、今後の北朝鮮の動向を予測していきます。
 
いつも応援ありがとうございます


まずは、建国(1948)直前の朝鮮半島の状況です。
 
朝鮮半島最後の王朝である李氏朝鮮の末期、1897年に日清戦争による清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の支配から離脱し、日本の強い影響下におかれることになりました。
 
1910年には、日韓併合条約が結ばれ、大韓帝国は大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府が設置されました。
朝鮮半島での日本の植民地支配は、1945年の大二次世界大戦の日本敗北で終了しましたが、その直後から朝鮮半島は北朝鮮と韓国に分断されてしまいました。
 
ウィキペディア「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」 [1]から引用します。

第二次世界大戦末期に日本へ宣戦布告をしたソ連は、朝鮮北東部から朝鮮半島を徐々に制圧して行き、日本の降伏後には、最終的に北緯38度線以北の朝鮮(朝鮮北部)全域に進駐した。


朝鮮総督府の統治が終焉した時点(1945年8月15日)で、朝鮮には朝鮮人による独自の共産党組織があった。しかしソ連は、東ヨーロッパの衛星国に対して採った方針を踏襲し、第二次世界大戦期をソ連で過ごした朝鮮人共産党員に、好んで権力を与える方針を持っていた。そのため、1946年2月にソ連軍(赤軍)は、ソ連に亡命し、そこで朝鮮人共産党員の指導的役割を担っていた金日成を、朝鮮北部の行政機関である北朝鮮臨時人民委員会の委員長に任命した。


金日成は、朝鮮の共産主義者の中では少数派に過ぎなかった。しかし、帰国直前にモスクワで行なわれたスターリンとの会談で、ソ連が樹立を考えていた朝鮮の共産党政権の指導者として認定された
と言われている。


北朝鮮臨時人民委員会は、同年11月3日の総選挙で朝鮮北部の政府として成立した。1947年2月に「北朝鮮人民会議」が設置されて北朝鮮臨時人民委員会は「北朝鮮人民委員会」に再編成された。金日成はその後、朝鮮共産党北朝鮮分局を結成し、徐々に反対派を追放していった。

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(左:金日成、右:スターリン)
   
金日成が北朝鮮の指導者となったいきさつについて、2006年に放映された【NHKスペシャル「ドキュメント北朝鮮」】から一部を紹介します。(ブログ「にほん民族解放戦線^o^」 [2]から引用します。)

権力掌握まで−スターリンの傀儡政権としての出発
ソ連の秘密文書によると、金日成の経歴は次のようなものである。


19歳から、旧満州で抗日ゲリラ活動をしていた。
その後、ハバロフスクに逃れ、ソ連極東軍の88特別旅団に所属。
その88特別旅団とは、ソ連が創った朝鮮人と中国人による部隊だった。
彼は、軍司令官などではなく、一つの小隊の指揮官にすぎなかった。


当時のソ連はスターリンの独裁下にあった。
北朝鮮にソ連の傀儡国家を作るために、その候補者を面接したのが、当時のソビエト軍事特別宣伝部長であったグレゴリー・メクレルだった。


>私は、候補者と面接し、ソビエトへの忠誠度や能力を測った。


当時候補として名前が挙げられていたのは、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる民族主義者であり国民的に人気もあったチョ・マンシク。
メクレルは面接で、チョ・マンシクは指導者として信用に値しないと判断(心底ではソ連に忠誠的でない…つまり傀儡としてコントロールしにくいと判断)。


金日成についてはグレゴリー・メクレルはこう語った。
>ずっと満州やハバロフスクにいたので、朝鮮国内のことは知らないと思っていたが、実によく知っていた。


結局、ソ連は彼を指導者として選び、北朝鮮を間接支配下に置くことにした。
おそらく、チョ・マンシクより若いし、御しやすいと考えたのだろう。
(その間接的証拠として、金日成は帰国直前にモスクワに呼ばれスターリンと会談したという話しは有名)


ソ連の秘密警察やソ連から送り込まれた朝鮮系のエージェントたちのもと、1948年に朝鮮民主主義人民共和国は設立される。


その時の演説で金日成はこう言ったと記録されている。
『朝鮮民族の解放者であるソビエト軍と偉大な領導者スターリン大元帥万歳!』(米国立公文書館資料)
建国パレードにも、スターリンと金日成の肖像画が並べて掲げらたのだった。

ソ連の後ろ盾によって独立を果たした北朝鮮ですが、建国当初は金日成の権力基盤は磐石ではなく、いくつもの派閥が勢力争いを繰り広げていました。金日成が権力を強化し、政敵派閥を打倒へと向かったのは、韓国侵攻(南進)によって1950に勃発した朝鮮戦争以降でした。
 
再びウィキペディア [1]から引用します。

建国当初の北朝鮮は、まだ金日成への権力集中が果たされておらず、満洲(中国東北部)でパルチザン闘争を行っていたとされる金日成の満州派の他、朝鮮北部甲山郡を根拠地に満州派と共に東北抗日聯軍を構成し普天堡の戦いを共に戦った縁で当初関係良好・準同盟関係だった甲山派(領袖は甲山工作委員会・朝鮮民族解放同盟を結成した朴金喆)、日本統治時代に朝鮮地域内で抵抗運動を続け戦後は南朝鮮労働党を結成していたいわゆる南労党派(領袖は朴憲永)、中国共産党と共闘していたいわゆる延安派、ソ連に渡りソ連国籍をもっているソ連派などの勢力に分かれていた。


北朝鮮の韓国侵攻(南進)によって1950年に勃発した朝鮮戦争は、武力統一こそ実現しなかったものの、この際に軍事委員会委員長となった金日成の権力を強化させ、甲山派・延安派・ソ連派と連携協力して最初の政敵とされた南労党派の打倒へと向かわせた。



しかし、1956年のソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判(個人崇拝も批判の対象となった)は、金日成の個人崇拝を進めようとする北朝鮮にも影響を与え、これ以降、国内の延安派、ソ連派が金日成の批判を強めた。こうした事態に対して金日成は甲山派と共同で、強権的に政敵を逮捕・除名(8月宗派事件)することで乗り切り、1950年代末までにはほぼ当初の政敵派閥を駆逐した(最後に残り、後に対立する甲山派の粛清・駆逐は1967年に行われた)。

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(朝鮮半島を南北に分かつ、「38度線」)
 
金日成は、同じ民族同士が殺しあうという異常な朝鮮戦争(例えていえば、東京を中心とする東日本軍と、大阪を中心とする西日本軍が、名古屋を境に戦争するようなもの)を外圧として利用して内部統合を図り、その後も政敵を強権的に排除するなど、強引に権力を掌握していきました。
 
また、1956年以降、毛沢東によるフルシチョフ批判から「中ソ対立」が深まるにつれ、社会主義陣営内で両大国に挟まれた格好の北朝鮮は、国際情勢や周辺大国の影響を排除するために、北朝鮮の自立性と主体性を主張する「主体思想」を打ち出しました。
 
最後に、主体思想とはどんな思想なのか、見てみましょう。(ウィキペディア「主体思想」 [3]より)
 
主体思想の原理は、

根本原理:人間は世界と自分の運命の主人であり、それらを開拓する力も人間が持っている。
人間の本質的特性:人間とは自主性、創造性、意識性を持った社会的存在である。
社会的運動の固有な合法則性:人間の自主性、創造性、意識性が高まり、それらが社会に影響する割合が高まる方向に発展する。

というものですが、そこで謳われるた指導者原理は、
革命と建設の主人公である人民大衆は必ず首領の指導を受けなければならない。首領は頭であり、党は胴体であり、人民大衆は手足と同じである。胴体と手足は頭が考えたとおりに動かねばならない。頭がないと生命は失われる。よって、首領の権威は絶対的であり、全ての人民大衆は無条件に従わねばならない。
と、権力の絶対化を図るものでした。
 
金日成が創始、その後も’97年に権力を世襲した金正日が発展・体系化していきましたが、主体思想の解釈権を朝鮮労働党が一元的に握ることによって、
肉体的な生命は生みの親が与えるが、政治的な生命は首領が与えるもので、首領は生命の恩人であり父と同じだ。従って、父の間違いで家が傾いたと言って、父を代えることができないように、首領を代えることはできないのである。全人民は、団結して無条件に忠誠を捧げなければならない。
など、経済が停滞しようが、飢饉になろうが、金体制を正当化する根拠として使われることになります。
 
 
次回は、国内の政敵を粛清・駆逐して権力を掌握した金日成が、どのようにしてソ連、中国、アメリカといった大国の間で立ち回ったのか、国際関係に焦点を当てていきます。
お楽しみに 😀

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