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脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(5)エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー

現代は市場原理に基づく経済システムが実体経済から遊離(バブル化)して、経済の崩壊の危機に陥っています。この経済システムに、過去〜現在に至るまで異議を唱えてきた経済理論家たちがいます。このシリーズではそれらの理論家の思想や学説を改めて見つめなおし、次代の経済システムのヒントを見つけていきたいと思います。
前回は、近代経済学からは、無視され続けたシルビオ・ゲゼルの学説に触れました。
脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(4)シルビオ・ゲゼル [1]
今回扱う思想家は、現代社会のような化石燃料や原子力に依存する経済活動・生活様式に別れを告げ、人々が物心ともに充実した生活を営むために、地産地消を軸とする暮らしに立ち戻ることを訴えていた、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーです。

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◆人物紹介と時代背景
エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーは、ヘルマン・シューマッハー(経済学者)の次男として、1911年ドイツに生まれました。
シューマッハーの青年時代のドイツは、第1次大戦後のドイツの賠償問題すなわち巨大な債務問題とそれが引き起こした大インフレーションが起こった時代でした。

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画像はこちら [2]から

    
  シューマッハーは、世界恐慌の始まる1929年10月にボン大学へ入学、11月にイギリスに渡り、ケインズに師事します。翌1930年に奨学金を得てオックスフォード大学ニュー・カレッジに転学。更に1932年には、アメリカのコロンビア大学に転学して金融学のパーカー・ウィリス教授に師事します。
         
     
 1936年、一般消費財会社ユニリーバーの社長ゲオルク・シヒトの個人的財務顧問としてイギリスに渡りますが、1939年、第2次大戦が勃発すると、イギリスにおける敵国人として居住地域からの即時立ち退きを命じられ、一時は収容所送りとなりました。
その後、イギリスのノースハンプトンシャーの農場に作業員として職を得ましたが、これが農業や牧畜、土壌問題に目をひらき、農業と工業の違い、環境問題の存在を知るきっかけとなります。
   
      
 1946年、イギリス国籍を取得し、ドイツの英国占領地域管理委員会の経済顧問としてドイツに移り、経済再建に奔走し多くの意見書を提出、産業組織やエネルギーの重要性について認識を深めていきます。
1950年、イギリスの石炭公社の経済顧問に就任しロンドン郊外に居を定め、世界の資源問題と環境問題に取り組むことになります。
1955年に、ビルマ政府の経済顧問としてビルマに行き、仏教徒の自然に対する優しい態度、簡素、非暴力に感銘を受けます。そして、インド独立の父、マハトマ・ガンジーの考え方に接することで、インド人、仏教の考え方を経済学に取り込んだ「仏教経済学」の構築を目指します。1966年に「評論集/Buddhist Economics(仏教経済学)」を出版します。近代経済学を学んだシューマッハーが、市場拡大を絶対視する主流経済学を全面的に批判した書です。そして、1973年に、この「仏教経済学」を再編集した「スモール・イズ・ビューティフル」を出版します。シューマッハーは、そのわずか3年余後の1977年に急逝しました。
                       
それでは、シューマッハーが仏教経済学「スモール・イズ・ビューティフル」で、どのように、社会を捉えているか見てみましょう
          
            
◆シューマッハーの問題提起
シューマッハーは、市場拡大を前提とした近代〜現代の経済が引き起こしている弊害を問題視しています。
「シュ−マッハ−仏教経済学の論理とその構造/武井 昭」 [3]より(※は、引用者による補足))

現代経済学には以下の二つのことが欠落しているとシュ−マッハ−は指摘する。すなわち、「人間の欠落」と「自然(環境)の欠落」である。現代経済学はもう一度人間と自然の研究から再構築する必要がある。そうでないと、全世界が工業化・都市化に収斂し、失業が増加し、貧富の格差が増大する。また、資源が枯渇し、地球環境の破壊が加速する。
シュ−マッハ−は今日の先進国の社会を完膚無きまでに扱き下ろしている。
1)無用の行為(※無駄な行為)
2)信仰の欠如(※感謝の心の欠如)
3)薄れた道徳性
4)貪欲な消費
5)金銭的無責任(※マネーゲーム)
6)感情を抑制できないこと(※欲望を抑制できないこと)
7)身勝手な意見に基づく個人主義
8)暴力
10)自他の生命・財産への尊敬の欠如
11)性の悪用
12)広告宣伝による言葉の堕落(※欲望の過剰刺激による市場拡大)
19)あらゆる意思伝達手段の歪曲と破壊(※マスコミによる洗脳)
21)血縁・国・選ばれた友人・誓いを立てた中世など根本的なものに対してすらなされる裏切り

そして、シューマッハーは、こうした現象を以下のように総括します。
「シュ−マッハ−仏教経済学の論理とその構造/武井 昭」 [3]より

「お互いに信じあうことができないこと、多くの人が絶えず不安の状態の中で生きているということ、技術の発達にも関わらず交流がますます困難になっていること、自然発生的な社会のまとまりがだんだん消えていくことから生じる亀裂を埋め合わせるため、組織によるますます多くの『福祉』が要求されている。と。」

現代経済学は、人の信頼関係を引き裂き、それは、集団間、社会をも引き裂いていくと訴えています。
                   
                      
  
    
◆シューマッハーの分析と提案
シューマッハーの脱「経済成長」論—連載・やさしい仏教経済学(8) [4]より)

●際限のない経済成長はあり得ない
 だれも彼もが十分に富を手に入れるまでは際限なく経済成長を進めるという考え方には、二つの点、すなわち基本的な資源の制約か、経済成長によって引き起こされる干渉に自然が堪(た)えられる限度か、あるいはその双方からみて重大な疑問がある。
 ケインズに従えば、経済的進歩は、宗教と伝統的英知がつねに戒めている人間の強い利己心を働かせたときに、はじめて実現できる。現代の経済は、はげしい貪欲(どんよく)に動かされ、むやみやたらな嫉妬(しっと)心に満ちあふれているが、そのお陰で拡大主義が成功を収めたのである。問題はこの秘訣が長期にわたって効力をもつか、あるいはその中に崩壊のたねを宿しているかどうかにある。
 ジョン・M・ケインズ(1883〜1946年)はイギリスの著名な経済学者で、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(1936年)。大量の失業を克服するには財政支出拡大による有効需要創出策が不可欠と説いた。さらに貪欲、戦争も是認した。
限定された目標に向かっての「成長」はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。
ガンジーが説いたように、「大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」が当たっていよう。永続性は、「おやじの時代のぜいたく品が今ではみんな必需品」といって悦に入るような欲深な態度とは相反する。
貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない。

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画像はこちら [5]から

   
シューマッハーは、修学時代から交友関係にあったケインズの経済成長論を問題視しています。なぜなら、際限のない経済成長は有限の資源と環境とは両立できないからです。つまり、経済成長が資源と環境に依存している以上、無限に経済成長しようとすれば必ず、限りある資源を巡る戦争を引き起こすと指摘しています。このことは、近年、アメリカを主軸とした多国籍軍によるアフガン、イラクへの侵攻の背景に中東地域などにおける再生不能の石油、天然ガス資源の確保があったことからも否めません。
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画像はこちら [6]から

人間は農業が滅びたら生きられない—連載・やさしい仏教経済学(7) [4]より)

●人間と自然界との和解が不可欠
 大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用からうまれた農業の社会的構造のもとでは人間は生きている自然界と本当に触れあうことはできない。それどころか、この社会的構造は、「暴力、疎外、環境破壊など現代のもっとも危険な傾向」の後押しをしている。健康、美、永続性は、そもそも真面目に議論されることさえない。これでは「人間的な価値の無視」、すなわち「人間の無視」であり、これが経済至上主義から必然的に生まれてくる害悪である。

経済至上主義の社会では、大資本を投資して工業化や集約型農業を進めることで、効率と利潤を追求してきました。その結果、労働者は儲けるためだけの仕事に充足を得られず、土地は化学肥料と農薬の大量使用から生命力を失ってしまったことを指摘しています。そして、シューマッハーは、人間と自然界との関係を再構築するため、農の多面的な可能性を提示しています。
人間は農業が滅びたら生きられない—連載・やさしい仏教経済学(7) [4]より)

土地はこの上なく貴重な資産であり、それを「おさめ、守る」のが人間の任務であり、幸福でもある。唯物主義的見方では農業は本質的に食糧生産を目的とするものだと考える。しかし広い視野からすると、農業の目的は次の三つである。
 ①人間と生きた自然界との結びつきを保つこと。人間は自然界のごく脆い一部である。
 ②人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。
 ③まっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を造り出すこと。
 ③の目的しか認めず、しかもこれを情け容赦なく暴力的に追求するような文明、その結果、①②の目的を無視した上、組織的にそれに反対の動きをする文明は、長期的にみてとうてい存続できない。
 「人間が自然界と和解することが、単に望ましいだけでなく、不可欠になったのだ」という某専門家の主張に私は賛成である。この和解は旅行、観光その他の余暇活動でできる性質のものではなく、農業の構造を変えることによって初めて達成できる。離農を促進することは止め、まず地方文化の再建を目指し、もっと多くの人たちがやり甲斐のある職業として農業に従事できるように土地を開放しなければならない。さらに大地の上での人間の営みのすべてが健康、美、永続性の三大理想を目指すような政策を模索していく必要がある。

農は、食料生産のためだけにあるのではなく、自然への感謝、自他の生命・財産への尊敬を獲得でき、地方文化とすることで地縁・血縁を回復へと向かわせてくれる可能性を秘めています。
近年、共認充足や教育効果など農の多面的可能性がクローズアップされるようになっていますが、このことをシューマッハーは数十年前から認識していたのです。
◆今後の社会に向けて
人間は農業が滅びたら生きられない—連載・やさしい仏教経済学(7) [4]より)

●超経済的価値を再認識するとき
 どんな社会でも自分の土地に手入れをし、長く健やかに美しく保つゆとりがないはずはない。技術的な困難はないし、知識もふんだんにある。我々は十分にエコロジーの知識があるので、今日、土地管理、家畜管理、食糧の貯蔵と加工、無分別な都市化などの面で起こっている行き過ぎや乱用の言い訳をすることは許されない。
 にもかかわらずそういうことが起こるのを許しているのは、貧しくてそれを防ぐ手だてがないからではない。その原因は、社会が「超経済的価値」への信念という確かな基盤を欠いているからである。
 いったんこの強固な信念が失われると、すべては経済計算に支配されることになる。経済計算という形で合理化されている、卑しく打算的な生活態度がそれである。人間の次に大切な、土地という資源をどう取り扱うかという単純な問題の中に人間の生き方のすべてが含まれている。われわれが超経済的価値を再び認めるようになれば、土地は再び健やかに、景観は昔のように美しくなるだろう。

シューマッハーは、土地・自然との一体感を持った人間、簡素で感謝に満ちた生活といった「超経済的価値」を、経済計算という価値を超える、より上位の価値として持つべきだと提起しています。
シューマッハーが生きた貧困と私権の時代、その根底は、「冨に対する執着心」であり、それは戦争や環境破壊、精神破壊を引き起こしました。その上、現代経済は、1970年に貧困が消滅した以降も、大量の消費をすることで、最大の満足を得る”経済的価値”を絶対視し、無理矢理市場拡大をしようとしてきました。
しかし、自我、私権(≒執着)は衰弱している一方、未だに観念は残っています。つまり、観念さえ塗り替えれば、土地・自然との共生を目指す、簡素で感謝に満ちた生活を実現可能な時代に入りました。
今後の社会では、シューマッハーが説いたように、時代にそぐわない「冨への執着心」を振り払い、まずは「物は足りている」ことを一人一人が自覚し、「僅かな消費で、最大の満足を得る生活」の実現を志向することが必要なのだと思います。
次回は、シューマッハーの考え(次代への可能性)を引き継ぎ、シューマッハー・カレッジを創設したインドの思想家サティシュ・クマール氏を扱います。

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