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脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(14)江戸期の経済理論家その1(二宮尊徳)

前回は、イスラームの経済システムを扱いました。神の代理人としての所有権、労働の奨励と促進(浪費や不労所得の禁止)、財の社会的還流など、神の教えによって自分発の考えを諭し、とことん集団発の思考で経済システムを構築していることが分かります。

脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(13)イスラム経済(ムハンマド・バーキルッ=サドル)その2 [1]

今回と次回で、江戸期の経済理論家として、注目できる経済学者(思想家)を扱ってみます。

一人は、江戸後期の農政家・実践思想家の二宮尊徳です。もう一人は、農村共同体への回帰を理想とし、時の特権階級(武士、学者、僧侶・神官)と支配思想(仏教、儒教、神道)を徹底的に批判し、東北の片隅で、農民指導を行った安藤昌益です。

まずは、二宮尊徳についてです。江戸後期の冷害と生産力衰退に対して、至誠・勤労・分度・推譲という行動指針(報徳仕法)を指し示し、農村復興を指導した二宮尊徳。その実践思想は、東北・関東から東海にかけて、影響力を持ち、明治前半の富国の基盤をつくり上げていきました。

1.江戸期の経済の動き、前半の高度成長期と後半の停滞期
2.江戸期の経済思想家達は何を論じていたか
3.疲弊した農村復興を実践的に指導した二宮尊徳と報徳仕法
4.幕末・明治初期の報徳運動

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1.江戸期の経済の動き、前半の高度成長期と後半の停滞期

江戸期は、江戸に幕府が開かれた1603年から大政奉還した1867年の約250年間です。この江戸期の経済の動きは、人口動態をみるのが一番分りやすいです。

江戸期の人口は、関が原の合戦が行われた1600年頃は、全国人口が1300万人位です。それが、元禄時代(1700年頃)2700万人、享保時代(1730年頃)3000万人と急増します。
それに対して、享保末期から享保飢饉、宝暦・明和・天明と次々に冷害・飢饉が襲い、生産力が疲弊し、人口が減少・停滞する不全期となります。

江戸期250年間は、前半125年間の高度成長期・人口急増期と後半の停滞期に大きく2分されます。

戦国・江戸前期の人口推移
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出典:現代社会研究所・古田隆彦ブログ「農業後波と工業現波を比較する」 [2]

前半の高度成長期は、戦乱の終了による社会の安定、農業技術の向上や新田開発等による生産力の拡大、武士が城下町、江戸に住まうことによる都市市場経済の成立、商人と職人層の人口増加という構造です。

後半の125年間は、相次ぐ冷害(飢饉)、火山噴火(宝暦の富士山噴火)、大地震(安政の大地震)の自然災害の圧力が高まり、一方、商人階層と武士・農民階層との力関係が変わり、社会の秩序構造が変わるという変動期になります。この変動期が人口の停滞として現れています。

飢饉と江戸の人口変動
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出典:縄文ブログ・貧乏人は猫を食え(by江戸北町奉行) [3]

2.江戸期の経済思想家達は何を論じているか

江戸期の学者(儒者)が本格的に経済を論じだすのは、高度成長期の最盛期(元禄)から幕府の治世が旨く行かなくなった天保からです。

そのスタートは、荻生徂徠の「政談」と太宰春台の「経済録」です。その後、経済を論じた学者と著述を年代順に並べて見ると、下表の通りになります。安藤昌益と二宮尊徳も入れてあります。

因みに、西欧の経済書と比較してみると江戸期の方が進んでいるのです。
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では、江戸期の経済学者が論じなければならなかった社会状況はどうだったのかを簡単に見てみます。

江戸期の経済の基本は、年貢米制度と武士の都市居住の強制です。武士はその生活の為に、給与を年貢米の形で受け取ります。300石の旗本とか30石の同心とかです。
一方、都市居住なので、武士は年貢米を貨幣(金貨・銀貨、銅銭)に替え、その貨幣で生活必需品を買い、嗜好品を求めます。

兵農一体の時は、平時は農業に従事し、自給自足度の高い暮しでしたが、城下町と江戸居住となると、何をするのも「お金」がかかる社会に転換しました。そして、大名や武士は、年貢米を担保にして、商人から金を借りることが一般的になってしまいます。

都市の商品や嗜好品の価格とお米の価格を比較すると、常に、お米の価格が下落して行きます。これは、武士の給料は減少するのに、生活費は年々増大するという構造です。だから、武士の借金は、常に大きくなっていきました。その結果、大名や武士が、借金取りに来る商人から逃げ回るという滑稽な事態になっていきます。(身分序列は士農工商ですが、最下位の商人に最上位の武士は頭が上がらないのです。)

江戸期中期の学者は、年貢米制度と都市経済の貨幣利用の間にある軋轢、身分序列の崩壊(貧困化する武士階層と実力をもちだす商人階層)、自然災害の多発による飢餓・社会不安の増大に直面したのです。

ここから、経世済民の学、「経済学」が登場します。経世済民とは、太宰春台が『経済録』のなかで、『天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也』と使ったことに発します。但し、太宰の先生である荻生徂徠も「経済学」という言葉は使っていませんが、乱れた世を治める方策を建策しています。

太宰春台/経済録
幕藩体制の下で進行した領主財政の窮乏、統治機構の形骸化・腐敗、農民の疲弊、商人高利貸資本への富の集中など、さまざまな社会矛盾が顕在化した。経世論は、これらの問題にいかに対応するかという献言・献策として執筆・刊行された。単純な貴穀賤金論(重農主義)や尚農抑商策(商人制限策)ではもはや状況に対応できないことが認識され、藩営専売策など幕藩体制の側から積極的に市場経済に対応すべきことが述べられている。

三浦梅園/価原
貨幣経済のもつ問題性を鋭く指摘した著作。「天下の良民、金銀の為に游手の奴隷となる」と書く。游手とは、有閑階級・商人階級のことで、良民が商人の奴隷になっていると論じている。

海保青陵/升小談
市場経済、商品経済、利子徴収を正当化した論理を展開する。
「田も山も海も金も米も、凡そ天地の間にあるものは皆しろもの也。しろもの(商品)は又しろものを生むは理也。田より米を生むは、金より利息を生むと違いたる事無し。金や米の利息を生むは天地の理也。しろものを貸して利息を取る也」

佐藤信淵/物価余論
佐藤は「貴金賤穀の弊」、金を貴び、穀物(農業)を賤しむ考えの弊害を論じた。
「米を蓄るときは鼠喰或は虫付、ふけ米等の出来て減ずること多きも、金を蓄ふるときは、利息出来て、増すこと多きが故に、年貢も金納を多くし、米を払ひて、金にするを良とするとは、小人の利術にして、君子の所為にあらず。」
(お米を備蓄すると鼠に食われ、虫がつき、日にちが経つと劣化する、金を蓄えれば減価せず、利息までつくと言って、武士も金を良しとする。しかし、これは君子の道ではない。)
「士人米を卑みて蓄積せず特に金のみを貴ぶが故に富商の鼻息を仰で憂喜をなすに至り、工商豊かにして、士農困む是れ上下地を易る(カエル)根原なり。此弊を改むるときは工商常に米穀に困み、士農を仰でその業を励むに至れば、物価は自然に平準なるべし」 。
(武士が金をのみ貴ぶので、豪商の鼻息を気にし、借金が返せないと憂いたり、金を貸してくれると言われて喜んだりする。工商が豊かになり、士農が貧窮するという身分序列の逆転が起ってしまう。武士が、金を貴ぶことを止め、穀物(お米)を貴ぶ世に戻れば、都市経済の商品物価が沈静するはずだ。)

神田孝平/農商弁
武士の世が終わり、都市市場を支配する「商人」の時代が到来するのは、当然であると論じた。
「かつて王朝が政権を担っていたとき武家をひどく卑しんでいた。しかし,源頼朝の時代にこれまで卑しんできた武士に政権を奪われた。今日では武家が商人をひどく卑しんでいる。しかし,商業をおこなうものが栄え,これをおこなわないものが衰える。すなわち「天下ノ権」が商人に移ろうとする時勢である。このままでは,武家政権もその将来が不透明になる」と。

江戸期の主流学者は、都市市場経済のすう勢に対し、その弊害を指摘しますが、押し止める理論を構築できずに、市場化に敗北していきます。

なお、荻生徂徠や太宰春台は、武士を城下町や江戸から農村地域に帰すこと(帰農論)を建策しますが、兵農一体となると、それは独立した武力となり、幕府体制、藩体制への脅威となるめに、採用されませんでした。

3.疲弊した農村復興を実践的に指導した二宮尊徳と報徳仕法

江戸期の後半期は、冷害・飢饉・火山・地震が頻発し、都市市場経済からの農村経済(お米経済)への支配が強まり、藩財政が破綻し、その領地である農村が疲弊していきます。
この藩財政の破綻と農村疲弊に対し、正面から取り組み、実践的な方針「報徳仕法」をまとめ、指導したのが二宮尊徳です。

二宮尊徳の略歴

二宮金次郎(尊徳)は、天明7年(1787年)に相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)の農家の長男として生まれます。

5歳の時、川の氾濫で自家の田畑が瓦礫となり、14歳で父親を亡くし、16歳で母親も無くしてしまいます。この苦境の中で、少しの土地に穀物を植え、荒地に菜種を植えるなどして、20歳の時に自家の再興を果たします。この再興の過程で、書物を読みながら、自然の理や人の有り様を考えていきました。
だから、一時期まで多くの小学校にあった「二宮金次郎像」が、薪を背負って歩きながら書物を読んでいる銅像になっています。

小田原時代のエピソード
・油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、それを燃やして勉学を続けた。
・荒地を耕して田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて植えて、米を収穫した。

自家の再興を遂げた後、小田原藩家老の服部家の破綻財政を立て直します。この立て直しの秘訣は、家老本人とその奥方の浪費を真っ先に止めることでした。『浪費を止めないなら、立て直しを担うことはできません』とはっきり宣言しています。
この服部家の再建が、小田原藩主に伝わり、小田原藩大久保家の分藩である下野国桜町領(現在の真岡市)の再興を任されます。その後、天領の真岡代官領の経営、日光山領の経営を「報徳仕法」により実行し、成功させます。
そして、安政3年(1856年)、下野国今市村(現日光市)の報徳役所で没しています。享年63歳。報徳仕法を最後まで指揮していたのですね。

桜町時代のエピソード
・ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。村人に冷害に強いヒエを植えさせた。二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった。
・開墾した田畑は、既存の田畑に比べると租税負担が軽くなることに注目、開墾を奨励した。
・村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの村人から馬鹿にされていた老人に15両もの褒美を与え、逆に、人が見ている時だけ他の村人より3倍近く働いているように見せかけて普段はサボっている若者を厳しく叱った。

ここには、自然の理や人の有り様を捉え、それを実践していく自在な発想があります。

では、二宮尊徳がまとめ、江戸末期の農村に広がって行った「報徳仕法」を見てみましょう。

報徳仕法、至誠・勤労・分度・推譲

報徳仕法は、二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、農業の実践から編み出したもの、農家・農村共同体が取り組む「方針書」です。

掛川に在住している「きよのホームページ」から紹介します。報徳社の部屋 [4]よりです。

至 誠
まことの道とは世を救い、世を益することをいいます。この意味においては仏教・神道・儒教・(キリスト教)も原点は皆同じです。宗教と違う所は理屈をこねるのではなく、まことを尽くし実行する所にあります。

勤 労
二宮尊徳のとなえた説に天道・人道論というのがあります。
天道とは春夏秋冬、晴天・雨天等自然事象全てを指します。植物の種は全て土壌の上で発芽し日光と水の力で生育します。これを動物が食べ物とし生きてゆきます。これが天道です。この自然環境の基で人は種の中で米とか大根とか人間の役に立つものをより分け、生育中も雑草を除去し、灌漑を行い収穫を多く得ようとします。このように人が手を加え自分達の利益のためになすことを人道と呼びました。人道は作為的なものですから放置すれば自然に廃れてしまいます。これに歯止めをかけ人道を保持するのが勤労です。

分 度
それぞれの分限を守り、相応の生活をするということ。これにより収支のバランスがとれた安定した生活ができます。至誠と勤労をもって収入を増やし、これに見合った支出をするのが順序で単に支出を押さえるけちけち倹約生活とは違います。見合った支出といっても贅沢やムダは戒めていますから当然収支過となります。この分を次に述べる推譲に回すわけです

推 譲
分度を確立した上で行うもので、収入の一部を将来のために譲ることをいいます。自分の子孫のために譲ることは比較的簡単ですが、村おこしのために、社会のために譲ることはなかなかできないですね。しかし村や社会が豊かになれば必ず自分に還元される、そのために将来に渡る生活の安定、幸福の保証のために必要なものが推譲です。例えば推譲金を灌漑事業に充てたとします。この結果干ばつ・洪水の心配もなくなり自己の作物の収穫量も増えるといった具合です。

このような実践方針、仕法の背後には、二宮尊徳の自然論・人間論があります。「一円の相」です。自然や人の有り様は、円の相(ごとく)であるという考えです。

季節は春夏秋冬。春に芽吹き生茂る(生の相)、夏には花が咲き、秋には実がなり、その種が冬を越すという図が左の図です。

右が人に世の円です。解釈すれば、「人の道(仁道)を貪り(むさぼり/必死に望み)、勤労に励み(仁行)、富を生み出すことで、仁徳の余力ができ、情の豊かな生活と推譲(仁心)に到る」の図です。
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二宮尊徳の人間理解、人の道の理解はユニークです。

兵庫県西宮市にある報徳学園のホームページより紹介します。

翁曰く、それ譲は人道なり。今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道に勤めざるは、人にして人にあらず。

尊徳翁は、譲るという行為は人間にしかできない行為であると教えました。人間の手の構造と鳥・獣の手(足)の構造を比較し、「人間の手は自分の方に向いていて、自分の方に物を引き寄せることができるが、相手に向けて相手の方に押しやることもできる。動物の場合は自分に引き寄せるのみで、相手の方に差し出すようには使えない。」という説明をしています。つまり、推譲は人間にしかできないことであり、だからこそ推譲を実践しなければ人間として失格であると厳しく教えました。

報徳学園、報徳教育部/今月のうた・ことば [5]

こんなことばもあります。

「男 至誠なければ女気を含み」「女 至誠なければ男気を含む」。男女の役割をまことをもって励まないと、男は女のようになり、女が男のようになってしまい、男女の和合が崩れてしまうの意味でしょう。

4.幕末・明治初期の報徳運動

二宮尊徳は、大政奉還が行われる20年前に没していますが、尊徳の教えにより、幕末から明治前半の時代に、東北から関東、東海にかけて、報徳思想・報徳仕法による農村復興、農村のむらづくりが取り組まれます。

・門人の相馬藩士富田高慶が、相馬藩の財政再建、農村復興に取り組み、成功させます。

・常陸国谷田部藩(現在のつくば市)では、天保災害で、藩領の4割が荒地になってしまい、藩財政が破綻します。そこで、第7代藩主興徳は二宮尊徳の報徳仕法を手本とし、藩医中村勧農衛を家老に登用して財政再建を主とする藩政改革を行ないました。必ずしも旨く行かなかったようですが。

一方、幕末から明治初期にかけて、農民・農村での報徳運動(報徳社運動)が起ります。

掛川の大日本報徳社の源流は、遠江国佐野郡倉真村(現静岡県掛川市)の豪農、岡田佐平治(1812—1978年)が設立した「牛岡組報徳社」です。佐平治は、報徳思想に感銘し、日光の二宮尊徳を訪ね、口授を受けて帰村し、掛川地方の難村の復興事業を指導します。明治8年(1875年)には遠江一円の農村復興を担う、遠江国報徳社を設立し、その社長に就任します。

幕末から明治初期に、遠江国と三河国(愛知県東部)一帯に、報徳社という農民共同組織が形成されたのです。報徳社・農村共同組織が取り組んだのが、耕地整理、用水整備、共有林(山)の管理です。

私の生まれた集落が、実は、報徳社により日本で初の耕地整理をした所です。その紹介をもって、明治初期の報徳社運動・農民の共同行為をイメージしていただければと思います。
彦島村の耕地整理を主導したのが名倉太郎馬氏です。

名倉 太郎馬(なぐら たろうま)
1840年(天保11年) – 1911年(明治44年)。明治期の農事指導者。
日本で最初に近代的な耕地整理を実施した人物である。名倉太郎馬らが実施した耕地整理は「静岡式」と呼ばれ、全国のお手本とされた。そして、1899年(明治32年)に法制化される耕地整理法へと発展していく。
彦島村(現袋井市彦島)は、太田川水系の蟹田川によって頻繁に水害を受ける貧しい村であった。太郎馬は、何とか村を立て直したいと考え、1871年(明治4年)、静岡藩庁に村の救済を願い出た。報徳社員(仕法人)の荒木由蔵が派遣され来村、その後を引継いだ神谷庄七郎の勧めで彦島報徳社を設立した。
収穫量を増やすには「すじ植え(筋縄定規植え)」という方法がよいという指導を庄七郎から受けた。そのためには田の形状を整えることが必要であった。1872年(明治5年)、試験的に、数名の者と共同で五反余歩の水田で、曲がりくねった畦道を取り払い、まっすぐな畦道にして、すじ植えをしてみた。農作業が能率化され、収穫量が増えることが実証された。
これを見た村人は心を動かされ、村全体の耕地整理に賛同した。また、1874年(明治7年)には、洪水の原因であった蟹田川の流路付け替えが認められた。
1875年(明治8年)、水田所有者の権利利害を調整し、官費を借り入れて、蟹田川の流路変更のための開削工事及び彦島村全体33haの道路・畦畔の直線化、用排水路の整備等の畦畔改良工事を内容とする集団的区画整理事業に着手、これを完成させた。
ウイキペディアより

  田原彦嶋の耕地整理
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  袋井市HP [6]より

彦島集落の道路、水田、水路の骨格は現在も図の通りです。報徳社事業により、農業基盤が整えられたのです。

また、明治の実業家にも、二宮尊徳の考え方が流れ込みます。豊田自動織機(現在のトヨタ自動車の初め)をつくり上げた豊田佐吉翁も、報徳思想により、困難な事業を成功に導いています。

二宮尊徳の報徳思想、報徳社運動は、明治の農村強化に役立ちますので、時の明治政府、特に、陸軍を育てた山縣有朋に利用されてしまいます(陸軍の兵隊は農村出身者なので)。そして、昭和の国家収束の強化のために、二宮金次郎像が作られました。

二宮尊徳は、自然の理を踏まえた実践思想、人間の共同性・本源性に基づいた組織論というように、日本人の根幹部分を引き出した優れた実践家(経済思想家)だと思います。

次回は、身分序列に安住する特権階級を徹底的に批判し、東北の一角に農村共同体(コミューン)を夢見た安藤昌益を紹介します。

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