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米国はどのように衰退してゆくのか?(6) 金融主義の末期・米国ドル崩壊への道 その1.ドルはどのようにして覇権通貨となったか

米国の覇権は、軍事力と基軸通貨の両輪で維持されてきました。前のシリーズでは、その軍事力・軍部が、愛国派と海外覇権派とに分裂している状況を扱いました。

米国はどのように衰退してゆくのか?(5)〜米軍分裂の可能性は?〜 [1]

次のシリーズとして、もう一つの柱である「ドル基軸通貨」体制の確立と弱体化、崩壊の兆しを扱ってみたいと思います。

シリーズの構成は、A.米国独立からドル覇権確立、国際基軸通貨ドルの確立までの経緯、B.ニクソンショック(金兌換停止)、その後の金融覇権を維持した手練手管、C.ドル覇権の綻び、リーマンショックを契機としたロスチャ・ロックフェラー対立の顕在化、D.ドル覇権の綻び、FRB・財務省支配に対する挑戦者(国内新興金貸し、海外の挑戦者・中国、ロシア、イラン、南米諸国)を予定しています。
まずは、米国独立からドル覇権確立、国際基軸通貨ドルの確立までの経緯です。

1)ポンドの影響圏を脱した独立戦争、その後の米国通貨
2)米国を金融支配する陰謀、FRBの設立、金貨・金塊の回収
3)金兌換通貨ドルという幻想の元に、基軸通貨ドル体制の確立

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 写真は合衆国造幣局

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1)ポンドの影響圏を脱した独立戦争、その後の米国通貨

植民地政府発行の通貨を禁止した英国、独立戦争のきっかけ

1775年 アメリカの独立戦争が開始した。植民地アメリカが英国の君主支配から自由を求めての戦いだ。この戦争には多くの理由が記録されているが特に目立つものが一番の理由である。英国のキングジョージ3世がアメリカ植民地内で独自に発行していた無金利の通貨発行を禁止させ、強制的に植民地に英中央銀行から金利をつけて借用させたことでアメリカ植民地が即座に借金に陥ったからである。
そしてベンジャミンフランクリンが後にこう記載した。
キングジョージ3世が植民地内部で英国支配から逃れる為の、自由で正当な通貨発行を禁止させたことが、おそらく独立戦争の一番の原因である。− ベンジャミン・フランクリン −
1783年にアメリカは英国から独立を勝ち取った。
しかしこれは中央銀行という制度と、それを操作している男達との戦いの始まりでもあった。
アメリカの金融史 [3]

英国の通貨、中央銀行イングランド銀行の発行するポンド使用を強制して来たのです。植民地政府は、ポンドを借金し、利子を払って調達しなければいけません。国家が独立すると言うことは、通貨発行権を確立することです。

独立後の政府による金貨、銀貨の発行

まずは、セント銀貨、ドル金貨という現物貨幣です。

米国は、独立後しばらくして、米国合衆国造幣局を設立し、銀貨と金貨を鋳造します。具体的には、3セント銀貨、5セント銀貨、10セント銀貨、25セント銀貨、50セント銀貨、1ドル金貨、2.5ドル金貨、5ドル金貨、10ドル金貨、20ドル金貨です。

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  写真はダブルイーグル20ドル金貨

米国内では、合衆国造幣局の発行する、ドル金貨、セント銀貨に加えて、スペイン銀貨、ポンド金貨などが使われることになります。

造幣局の設立は1792年、硬貨法が議会を通過したことにより、国務省の内部組織として誕生した。造幣局の本部であるフィラデルフィア造幣局の建物は、アメリカ合衆国憲法の下において最初に建設された建物でもあった。
造幣局の設立により、合衆国は10進法の貨幣制度を採用した。それ以前は8進法のスペインドル銀貨が標準的に使用されており、その中に10進法に基づくイギリスのポンド、シリング、ペニーが混じって使用されていた。1784年、トーマス・ジェファーソンは大陸会議の最高財務責任者ロバート・モリスと貨幣制度について議論をした。そしてベンジャミン・フランクリン、アレクサンダー・ハミルトンらの強い後押しにより10進法の貨幣制度導入が提起され、翌1785年の議会により合衆国の貨幣単位は1ドルであり、ドルは10進法に基づいて分割されるという決議が行われた。翌1786年には、1ドルの100分の1がセントと名づけられた。
アメリカ合衆国造幣局 [5]

そして、1848年にカリフォルニア州で金が発見され、ゴールドラッシュが起り、ドル金貨の発行が増大し、国内経済の潤滑油の役割を担い、産業隆盛につながって行きます。

欧州金貸しによる紙幣発行銀行の設立(第一銀行、第二銀行)

1776年アメリカは独立宣言を行い、翌年アメリカ合衆国憲法が採択され初代の大統領にワシントンが就任した。当時の財務大臣のハミルトンは、ロスチャイルド家と浅からぬ因縁を持つ人物で、ロスチャイルド家からの援助を受けていたという。彼が第一アメリカ合衆国銀行を設立した。(レオン注:第一アメリカ銀行の設立は1790年) 政府の貨幣財産と税収を中央銀行に預け、中央銀行は経済の発展の需要に応じて国家の通貨を発行し、アメリカ政府に融資を行い、同時に金利を徴収した。資本総額1000万ドル、5分の1は連邦政府の出資、他は一般からの公募そのうち700万ドルをイングランド銀行やロス・チャイルドが名を連ねた。
第一アメリカ合衆国銀行では、発行する通貨の信認を得るためには、十分な資本が必要だったわけで、そんなお金を出せるのは、世界一の金保有高を誇ったイギリスであったし、ロスチャイルドであったというわけだ。しかも銀行経営は完全に株主に牛耳られていた。
1801年ジェファーソンが大統領に就任したが、第一アメリカ合衆国銀行が特定の商業資本の利害に動かされていたことに反発していた。アメリカ人に嫌われていた第一アメリカ合衆国銀行は1811年に閉鎖された。
すると利権を失いたくないイギリスがアメリカへの干渉を強めたため1812年英米戦争が勃発した。やはり資金不足のアメリカは政府紙幣を発行したが、結局1815年アメリカ政府は降伏した。結局2つ目の中央銀行である第二アメリカ合衆国銀行が1816年に誕生することとなり、その資本の20%を政府が、残りの80%を個人が占めた。ここでも再びロスチャイルド家がしっかりと銀行の実権を握ることとなり、やはり銀行は株主の利益のための運営を行っていたので、再び国民の不満は高まった。
1832年にジャクソンが大統領に就任すると第二アメリカ合衆国銀行を閉鎖することを決めた。しかし、第二アメリカ合衆国銀行のビルド総裁はロスチャイルド家の後ろ盾があり、抵抗した。銀行更新のための法案は議会で可決した。大統領が拒否権を使うかもしれないとの憶測にビルド総裁は「ジャクソン大統領が法案を否決したら、今度は私がジャクソンを否決する」と言ったが、結局大統領は拒否権を使い、1836年第二アメリカ合衆国銀行は閉鎖された。
アメリカ経済史に見る通貨発行の意義 [6]

米国では、通貨を巡って、実物貨幣(銀貨、金貨)主体とする米国自立派と欧州金貸し勢の中央銀行による実行支配(通貨発行権の独占)との対立が底流となります。

2)米国を金融支配を確立する陰謀、FRBの設立

クリスマス休暇の中、少数議員でFRB法を成立させる

金貸し達は、改めて、信用創造の特権を行使するための中央銀行の設立を目論みます。1910年に金貸し達は会議を行い、3人の大統領候補をそれぞれ応援分担し、当選したウィルソン大統領をして、1913年にFRB法を成立させます。

FRBは1907年に起きた金融危機を教訓として誕生しました。金融危機の再発を防ぐため、ポール・ウォーバーグが銀行改革の必要性について、連日のようにマスコミを通じて主張しました。そして、1910年、J・P・モルガンが所有するジョージア州のジキル島でFRBを設立する為の秘密会議が開かれます。この秘密会議の出席者は次のようなメンバーでした。
☆ネルソン・オルドリッチ・・・・共和党上院議員で院内幹事。全国通貨委員会委員長。J・P・モルガンの投資パートナー。ジョン・D・ロックフェラー・Jr.の義父。
☆エイブラハム・アンドリュー・・・・連邦財務次官補。通貨委員会特別補佐官。
☆フランク・ヴァンダーリップ・・・・ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク頭取。ロックフエラーとクーン・ローブ商会を代表。
☆ヘンリー・ディヴィソン・・・・J・P・モルガン商会の共同経営者。
☆チャールズ・ノートン・・・・J・P・モルガンのファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの頭取。
☆ベンジャミン・ストロング・・・・J・Pモルガンのバンカーズ・トラスト・カンパニーの社長。のちにニューヨーク連邦準備銀行の初代総裁。
☆ポール・ウォーバーグ・・・・ロスチャイルド商会代理人。クーン・ローブ商会の共同経営者。
米国では中央銀行に批判的な意見が多かったので、ポール・ウォオーバーグが中央銀行という名称を避けるように提言し、連邦準備制度という名称に決定しました。連邦準備制度をつくる法案は、共和党のネルソン・オルドリッチが機会に提出しましたが、オルドリッチ法案は民主党から激しい反対を受けます。議論を続けている間に、共和党が野党に転落してしまいました。
リンク [7]より

第一合衆国銀行、第二合衆国銀行が批判を浴びて廃止されていますので、金貸し達は巧妙に、「連邦準備制度」という名称にしたのです。

そこで、民主党の大統領候補者ウッドロー・ウィルソンに白羽の矢が立ちます。1912年の大統領選挙では、現職で人気者のウィリアム・タフト(共和党)が再選確実とされていました。そこへ人気者の元大統領セオドア・ルーズベルトが、共和党を離れ、革新党を結成して立候補します。その結果、共和党内で票が割れて、ウィルソンが地滑り的勝利を収めます。
この時ウッドロー・ウィルソンを支援していたのが、ポール・ウォオーバーグとジェイコブ・シフ。ウィリアム・タフトを支援していたのがウォオーバーグの従兄弟フェリックス・ウォオーバーグ。そして、セオドア・ルーズベルトを支援していたのがオットー・カーン。
ポール・ウォオーバーグ、ジェイコブ・シフ、フェリックス・ウォオーバーグ、オットー・カーン、この4人は全員がロスチャイルド一族であり、またロスチャイルドが大株主であるクーン・ローブ商会の共同経営者です。つまり、大統領選でもリスクヘッジ(危険回避)が行われていたわけです。
ウッドロー・ウィルソンは、就任式の直後に特別会期を召集して、クリスマス休暇でほとんどの議員たちが帰省中に、民主党が提出したオーウェン・グラス法という連邦準備法を可決させました。そのオーウェン・グラス法案は、以前、民主党が反対していた共和党のオルドリッチ法案と名前以外はほとんど同じという法案でした。
リンク [7]より

こうして成立した連邦準備制度に対し、推進したウィルソン大統領自身がその後、後悔します。

数年後ウィルソン大統領は後悔し以下に記述した。
我々の豊かな産業国はクレジット制度に支配されている。クレジット制度が国民を支配している。よって国家の成長と全ての政策はある数人の男達の手の中に渡ってしまった。彼らの独断で国家経済の停滞や自由も破壊できる。我々は世界で最も独裁的な支配力の下に置かれている。政府には自由な意見も信念も多数投票もない。ある少数の権力を保持している男達の国家である。

連邦準備制度の仕組みは以下のようなものだったからです。

FRBは米国政府が一株も保有していない民間銀行のカルテルです。この民間銀行が所有する中央銀行が、どのようなことを行っているか?1964年に開かれた下院銀行通貨委員会の公聴会でのライト・バットマン議員の証言を見てみましょう。
<1ドルは連邦準備制度に対する1ドルの負債を表している。連邦準備銀行は無から通貨を創造し、合衆国財務省から政府債券を購入する。利子の付いた流通資金を合衆国財務省に貸し出し、合衆国財務省に対する小切手貸付と帳簿に記帳するのである。財務省は10億ドルの利付債の記帳を行う。連邦準備銀行は財務省に対して債権の代価の10億ドルの信用を与える。こうして10億ドルの債務を無から創造するのだが、それに対して米国民は利息を支払う義務を負うことになるのである。>
リンク [7]

FRBは、財務省へ10億ドル貸付と記帳し、10億ドルの紙幣を引き渡す。この10億ドルに対して財務省(国民)は利子を払うのです。FRB(金貸し)は、無からドルを生み出すのです。この段階では、FRBの米ドルは、まだ金の裏付けを必要とし、制約がかかっています。次は、金の制約を脱することです。

大恐慌を契機にして、ドル金貨を廃止に持ち込む

FRBは、発行する米ドル紙幣に対する、一番の競争相手である造幣局の発行する「金貨」を取り除きます。

1929年、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落したのをきっかけに世界大恐慌が起こりました。経営がおかしくなった企業は、銀行に駆けつけて預金を引き出します。はじめのうちは要求に従っておとなしく銀行券を渡していた銀行も、苦しくなった企業が増えるにつれ、預金引き出しを渋るようになりました。
そうなると預金を引き出すのに銀行券をもらうのが不安になり、『金(金貨)で返せ』というようになります。しかし、それ丈の金貨が銀行にはありませんでした。銀行は手持ち以上の銀行券を発行していたのです。益々銀行券は信用されなくなり、兌換要求に応じられない銀行は倒産に追い込まれました。そうなると倒産した銀行に預金していた企業や融資を頼っていた企業も巻き添えになり、倒産してしまいます。
世界大恐慌の原因は、1920年代にFRBの指示で銀行が信用創造量を増やした事によります。融資の担保は主に株券であり、その結果、株価は高騰、バブルが発生します。株価がピークを迎えると、FRBは一転して銀行の信用創造量を厳しく抑制。お金の流通量をわざと減らして大恐慌を引き起こしました。この事はミルトン・フリードマンはじめ多くの経済学者が指摘しています。
この恐慌により1万6000もの銀行が倒産し、その殆んどはモルガンやロックフェラーといった大資本が吸収・合併していきました。また、紙切れ同然となった企業の株券も買い占め、両者の独占状態になります。
さらに、1931年には景気回復という名目のもと金の回収が行われます。応じなければ懲役10年という罰則のもと、米国民すべてが金貨や金塊を財務省で紙幣と交換することを義務付けられました。そして、1939年末には兌換紙幣が廃止され、紙幣と金はもう交換できなくなりました。つまり、合法的な金の強奪までもが行われたのです。
リンク [8]

こうして、金の制約を脱して、FRBが無限に信用創造できる仕組みをつくり上げたのです。

3)金兌換通貨ドルという幻想の元に、基軸通貨ドル体制の確立

第二次世界大戦の勝敗が見えてきた1944年に、戦後の貿易体制、決済体制を決める会議が、ブレトン・ウッズで開かれます。

英国を代表したケインズは、世界決済通貨(バンコール)を提案します。特定の国の通貨ではない、世界通貨です。それに対して、米国を代表して、ホワイトが、「金兌換が保証されている米ドル」を基準として、各国の通貨と米ドルとの交換レートを固定した「米ドル基軸通貨」を提案します。

その後、世界は第二次世界大戦に突入していきます。戦後、世界の金の65%が米国に集中したそうですが、その理由の一つは、第二次世界大戦が膨大な物資の消耗戦であり、米国がその資源供給国となった為。もう一つは、それまでの金融の中心地であったイギリスから米国に資金が移動してきた為と言われています。
金が米国に集まっていたことが決めてとなり、1944年に開かれたブレトン・ウッズ会議で、米国は世界の銀行という役割を担う事になります。ドルが世界の基軸通貨となり、「米ドルのみが金と交換可能で、他国のお金は米ドルと交換できる」という金為替本位制がとられる事になりました。
リンク [8]

1939年に金兌換を停止し、米国民に対して紙幣使用を慣れさせてきた米国が、単なる紙切れである米ドルを世界中で使わせる第1歩だったのです。

基軸通貨米ドルは、建前は「金兌換米ドル」ですが、実質は、国際貿易、国際取引をドル建てで行うように仕向け、誰もが米ドルを必要とする状況を作る事によって、ドルの実行支配を確立して行きました。

この米ドル覇権に挑戦したのが、フランスのドゴールです。また、米ドルの金兌換という建前を攻めたのが、スイスの金貸し達(チューリッヒの小鬼)でした。

彼らが、海外に垂れ流された米ドルの「金兌換」を要求し、米国は金を引き渡さなければならなくなりました。

米国は、1972年、ついに、米ドルの金兌換停止を宣言します。いわゆるニクソンショックです。

『金兌換』という建前を捨てた米ドル覇権は、その後どう展開したのでしょうか。それは、次回扱います。

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