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近代市場の成立過程(12)〜絶対王政と重商主義にみるフランスの発展〜

 前回までの記事では、イギリスやオランダの市場の発展について見てきました。今回は周りの国と一転して経済発展の点で遅れをとっていたフランスの事情、特に王権を急速に強化させたことで有名な絶対主義と、ヴェルサイユを中心に華やかさをもたらしたことで有名な重商主義についてみていきます。

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●フランスの時代背景〜宗教内乱と同時並行の王位上昇〜
 
英仏による100年戦争(1339〜1453)以後
王権強化(∵封建領主の衰退、新興地主階級の未発達)→中央集権化を一気に目指す
 
一方でルターの影響による福音主義(聖書主義)のプロテスタント(ユグノー)の増加

王家(カトリック)と新教派(ユグノー)の対立構造

ユグノー戦争(1562〜98)へ
 
 戦いの中、ブルボン家(後出のルイ13世もブルボン家)のアンリ4世が王位につく。ブルボン家はこの時期プロテスタントであったが、再びカトリックへ改宗。そして1598年にナントの王令を出した。これはユグノー側にも信仰の自由を認めたものであり、内乱もようやく一時的に収拾がついた。
 
 しかしプロテスタントはカトリック教会にも十分の一税を納めなくてはならなかったり、制限が付きまとうものだった。
 周囲の国々がプロテスタントに走る中で、カトリックを保持したフランス教会は、当時ガリカニズム(ローマ教皇からの独立的な傾向)を推奨。カトリックであるがゆえに人事権や徴税権は確保でき、ローマ教皇からのうまみはしっかりと受け取りながらも宗教的には独立を謳っていた。こういった背景からカトリックのほうが世俗利害との結びつきが大きく、カトリック優位にする必要があったのである。
 
 ユグノー戦争でプロテスタントと封建領主を戦わせながら弱体化させ、その間相対的に王位が上がっていき、ここから絶対王政がどんどん進行することになった。

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 ユグノー戦争

 


 
 
●絶対主義の確立へ〜2人の裏の政策推進者たち 宰相リシュリュー、マザラン〜
 
 アンリ4世は国内の紛争状況を打開したものの、戦争によって逼迫した王室財政の見直しや産業の再建という大きな課題に向かうことになった。国力の回復のために農・商・工の再建を掲げた。
 後にルイ13世が王位につき、リシュリューが政策の推進者になる。リシュリュー没後、彼推薦のマザランに政権が移った。
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−リシュリュー(1585-1642)の政策−

・ 国語をフランス語に規定、演劇への政治介入の排除→文化的に国を統一
・ 行政組織の整備、三部会※の停止→中央集権体制の確立
・ 国防用以外の全ての城塞を破却、貴族同士の紛争禁止令→封建貴族の影響力を弱体化

 ※三部会・・・フランス国内の三つの身分からの代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会。1302年から始まった。三つの身分はそれぞれ、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である平民。以後フランス革命後まで200年近く開かれないことになる。
 
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−マザラン(1602-61)の政策−

・ 三十年戦争へ介入を続けながらの領土拡大→戦力拡大、戦争継続による国民への重税
・ プロテスタントの大貴族勢力の反乱(フロンドの乱(1648-53))を鎮圧→さらなる王権強化

 フロンドの乱は主にプロテスタントが主体となって行った最後の反乱であったため、プロテスタント勢力を弱める結果となった。
 ※三十年戦争(1618〜48)・・・ドイツ国内での戦争。国王がカトリックへ宗教改革を強制しようとしたところ、プロテスタントの民衆が反対し、蜂起した。スウェーデンやデンマークなども巻き込んで全欧的な戦争となった。
 
 
●ルイ14世の登場〜絶対王政への拍車〜 

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ルイ14世

 
 1661年、ルイ14世に王位が移り、宰相制度を廃止し1人で政治を動かすようになった。この時期になると絶対王政の土台は出来上がってきており、ルイ14世はまず国務に関する決定を全て自ら行うようにした。行政機構の整備が行われ、国務会議の出席者及び各部門の責任者に側近を登用するなどして貴族の権威を低下させ、中小階層の登用で権力を強化した。そのほか高等法院から建言権を取り上げ、高等法院の抵抗を排除した。
 
 つまり王に台頭できるような位の者が上がらないシステムを作り上げたのだ。その絶対王政の象徴としてルイが言い放った言葉に「朕は国家なり」(L’État, c’est moi)と言うものがある。彼は王権神授説を唱え、王権は神に対してのみ責任を負うとした。
 
 ※王権神授説・・・君主権は神から授けられたもので、国民はこれに絶対服従すべきだとする説。16世紀フランスのボダンが始め、フランスの神学者ボシュエによって完成。しかし、その後ホッブズやロックの社会契約説によって、この神授説は否定されていった。
 
 また、フランス芸術の萌芽の時代をつくった。ルイはさまざまな芸術家のパトロンとなり名士達に出資した。なかでも有名なのはヴェルサイユ宮殿の建築であり、これには5万人の労働者、50年の月日を費やしたといわれる。
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ヴェルサイユ宮殿

 


  

 
●重商主義の発達〜コルベールの重商主義〜

 マザランが宰相だった時代は経済発展という面では停滞していたが、その後ルイ14世の政策推進者としてコルベール(1619〜83)を推薦した。フランスの重商主義はコルベルティスムと呼ばれるほどで、彼の政策の元、フランスは重商主義の絶頂を迎える。
 

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コルベール

 
 コルベールの政策は主に2段構えになっている。

 1. 貴金属の蓄積政策
 
 2. 製造業・商業の奨励政策

 である。コルベールの国富増進政策は、フランス的には貴金属至上主義(クリソエドニズム)であり、貨幣の蓄積を中心として考えている。「財政が国の最も本質的な政策であり」、そのためには「人民をしてより多くの租税を容易に支払いうるほど王国内に貨幣量を増加させる」必要があると主張した。フランスは元々鉱山が無く、金銀の発掘はできなかった。しかし周りの国では大量の金銀の流通によりインフレが起きているくらいであり、それになんとか割り入ろうとしていた。こういった考えを背景に、第一に金銀の国外への流出を防ぎ、第二に外国からの金銀の流入を増大させようとした。つまり輸出推進という目的の元、2.の政策はあったといえる。
  

「輸出>輸入」=貿易差額の超過→金銀の流入

 
 
 このコルベールは、貿易を貨幣獲得競争とみて、外貨獲得のための政策として保護関税をかけ、原料以外の輸入を制限または禁止し、イギリスやオランダに抗して、特権的な貿易会社を作った。また、輸入貿易体制の確立をめざして、中小手工業をギルドに再編入し、これを特権商人・大金融業者の下に置いた。輸出競争力を高めるためには低賃金でなければならず、そのためには穀物価格は安くなければならない。そして、その安い穀物の輸出は禁止された。さらに、イギリスに抗して対外進出をはかるためには軍事力を強化しなければならないとして、コルベールは税制を強化して税収の増加をはかった。 
 
 アダム・スミスは『諸国民の富』の第4篇第9章で、「ルイ14世の有名な大臣であったコルベール氏は実直で非常に勤勉で細大の事務に精通した人・・・(中略)であった。不幸にもこの大臣はマーカンタイル・システム(重商主義)のあらゆる謬見(誤解)をいだいていたのであった。」といってコルベールの政策を批判している。 
 
 しかしながらこうした重商主義政策のために王室の財政は豊かになり、王権は強化されたが、農村は疲弊し、規制の下に置かれている手工業者は反抗した。この豊かさに甘んじて戦争への介入を続けた結果、フランスは大きな赤字を生み、それは後にフランス革命へと発展していくことになる。 
 
 
●まとめ

 フランスの絶対王政は宗教内乱の結果、封建領主たちが弱体化したことに起因する。王政を維持するためには、反乱分子への徹底的な弾圧が必要で、恐怖により王の地位は確固たる物になった。さらにコルベールの徹底的な経済政策により、莫大な富を蓄える。軍事力も比例して強化していったものの、一番の働き手であったユグノーを他国に流出させてしまい、周りの国々に比べて遅れを取る結果になってしまった。
 つまり、絶対王政は、国内の反乱因子(ユグノー)を取り込むことができない国王が強権化を押し進めた結果生まれた。
 また、重商主義は資源の無かったフランスで、自国の産業を保護しつつ金銀の流入を増やすために発展した考えといえる。 

 
 
 
 
 次回は宗教革命などの中で敗北した欧州貴族、逃亡農民の流入先となっていた国であり、厳しい条件下でも力をつけて領土拡大してきたロシアに注目します。

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