- 金貸しは、国家を相手に金を貸す - http://www.kanekashi.com/blog -

日本史から探る、脱市場の経済原理(1)〜奈良時代に至る背景(支配者の変遷)と諸外国との関係〜

いよいよ「日本史から探る、脱市場の経済原理」シリーズ始まりました☆
  

プロローグ [1]より>
今回から始まるシリーズでは、古代〜近世までの日本に焦点を当ててみます。日本人は、明治の開国までどのような経済システム(生産・流通・財政・金融etc)の中で生きていたのか。そこに通底する原理とはなんなのか。以下のような視点で経済史を追求する中から、新しい経済原理のヒントを見つけ出したいと思います。

 
 
古代〜近世を段階的に追求していくにあたって、まず古代については奈良時代に焦点を当ててみたいと思います。経済システムを含め、日本という国のカタチと追求に必要な歴史情報が概ね整ったといえるのがこの頃だからです。
 
とは言え、奈良時代もそれ以前の歴史の上に成り立っているのであり、その背景を押さえることなしには深く掘り下げることは難しいでしょう。
よって今回の記事では、奈良時代に至るまでの日本の概史を、諸外国との関係をベースに押さえてみたいと思います。
 


■ 日本への渡来人の歴史概要
日本の古代史は、渡来人との関係によって形成されている要素が大きいため、まずは縄文時代からの渡来人の概略をまとめてみます。
 
<紀元前>
 
4000-2000 中国江南地方の民が断続的に九州へ [2](長江文明の一部が日本にも伝来)
 
kounanntiho.jpg [3]
 
473 江南地方の呉が越に滅ぼされる→呉の避難民が九州北部や西沿岸部に定住
334 江南地方の越が滅亡→越の避難民が日本海は出雲から越地方へ、
   また関門海峡を越えて瀬戸内海、豊前から豊後、伊予、日向へ 
   →倭人と呼ばれる(参考 [4]
200 秦王朝成立→倭人(徐福)が日本へ
 
※この呉、越からの避難民が、いわゆる弥生人
[5]
[6]
 
 
 
<紀元後>
 
chousenn.png
 
1〜6世紀に、渡来人が朝鮮各国(伽耶・百済・新羅・高句麗)から日本に入ってくる
 
※伽耶は韓倭農耕部族連合(呉・越からの逃亡民)
※百済はツングース系扶余族
※新羅はモンゴル系遊牧民
※高句麗はツングース系扶余族
 

天皇制国家の源流5〜北方の扶余族(高句麗・百済)に追われて逃げた倭人勢力(=加耶)が第一期大和朝廷 [7]
より
【1】最初に日本に入ったのは、九州北部に侵入した朝鮮半島南部の加耶(倭)勢力である。(1世紀)
【2】それに続いてor同時期に、朝鮮半島東部から新羅勢力が出雲・北陸に渡り、続いて畿内に侵入。
【3】新羅勢力(国つ神)が支配していた出雲・畿内を北九州の加耶勢力(高天原の天つ神)が征服し、服属させた。
これが出雲の国譲りと神武東征であり、天孫族(天皇家)第一波である。(3世紀) ※大和朝廷
【4】その後、朝鮮半島西部から百済勢力が九州北西部〜畿内へと侵入する。(4世紀〜)

 
350 大和朝廷(崇神王朝)が国内を統一 ※伽耶系(日本の天皇の第一波)
562 朝鮮半島にて新羅が伽耶を併合
660 朝鮮半島にて新羅が百済を滅ぼす
661 天智天皇即位 ※百済系
663 白村江の戦い(天智天皇が百済救済のために軍を派遣)
   →倭国が唐・新羅連合軍に大敗
663 唐と新羅の軍が九州に駐在(667年まで)
668 朝鮮半島にて新羅が高句麗を滅ぼす
   →逃げ延びた高句麗の一派が東日本へ定住
672 壬申の乱
673 天武天皇即位 ※新羅系
 
 
この時代を俯瞰すると、、、
 
日本での本格的な渡来人の歴史が始まるのが、紀元前500年以降(縄文→弥生時代への転換期)。中国春秋戦国時代の敗者(呉人、越人)が、中国江南地方より九州、四国、中国、近畿に流れ着き、定住していきます。
この段階では大きな戦争はなく、元々の縄文人と渡来人(弥生人)とが住み分け、あるいは共存しつつ、渡来人が持ち込んだ稲作が急速に普及していく時代です。
(参考:縄文晩期とはどのような時代か?2〜渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に [4]
 
同時にこの頃、呉人、越人は朝鮮半島南部にも流れ着き、国作りを始めます。これが後の伽耶となります。
 
一方、ツングース系遊牧民(扶余族)や秦帝国に追われたモンゴル系遊牧民が朝鮮半島に流れ込み、百済(ツングース系)、新羅(モンゴル系)、高句麗(ツングース系)を建てます。これらの勢力に追い込まれた伽耶勢力の一派が朝鮮から日本に流れ込み、九州経由で畿内に入ったものが大和朝廷となります。
(参考:天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷 [8]
 
その後、朝鮮半島では唐と連合した新羅が覇者となり、追われた百済一派が日本に流れ込み実権を握ります。その最初の天皇が天智天皇です。
 
ここで百済の一派である天智天皇は、新羅に攻め込まれている百済救済のために、朝鮮に軍を派遣します。それが白村江の戦いです。
  

img_865583_33776718_0.jpg

 
 
■ 白村江の戦いで唐に大敗
663年、倭国(天智天皇)は、唐・新羅の連合軍に戦争を仕掛けます。
 
倭国は2万7千もの兵を朝鮮(白村江)に送り込みましたが、数では劣る唐の軍隊に多くの船が焼かれ、わずか一昼夜の戦いで敗れます。
 
兵力では勝っていた倭国の敗因が、圧倒的な軍事力の差にあったことは明らかで、倭国はこの現実をまざまざと実感することとなりました。
 
 
■ 唐の軍事力の源泉となっていた律令制とは
唐の軍事力の源泉となっていたのは、その国家体制である律令制にありました。これは国家体制の根本をなす基本法典として律・令・格・式を定め、国家の行政組織や業務などをすべて法典に基づいて体系的に運営する官僚制の中央集権体制です。(律は刑法、令は行政に関する規定、格は律令の規定を増補修訂する法令、式は律令および格の施行細則)
 
rituryosei.jpg
※唐の三省六部制

 
・中書省 – 皇帝と相談して下からの上書を吟味してそれを元に、
 あるいは皇帝の独自の意思を元に、法案の文章を作る。
・門下省 – 法案を審査し、内容によっては中書省へ差し戻す。
 中書・門下が立法機関である。
・尚書省 – 門下省の審査を通った法案を行政化する。
 
また、尚書省の下には実務機関としての六部があります。それぞれの職掌は次の通り。
 
・吏部 – 官僚の人事を司る。
・戸部 – 財政と地方行政を司る。
・礼部 – 礼制(教育・倫理)と外交を司る。
・兵部 – 軍事を司る。
・刑部 – 司法と警察を司る。
・工部 – 公共工事を司る。
 
※これは現在の日本の立法−行政−官僚制とよく似ており、従ってその起源は唐の律令制にあったと言えそうです。
 
 
唐はこのような中央集権体制を基盤に土地制度(均田制)と税制(租庸調制)によって安定的な国家財政を構築、その財をもって軍事力(府兵制)を固めているところに大きな特徴がありました。
 
<府兵制とは>
成人男子(21歳 – 59歳)を対象に3人に1人の割合で徴兵し、折衝府と呼ばれる部署に集められ、1年に1〜1回、1ヶ月間国都の衛士の勤務 、3年間、防人として辺境の防衛にあたらせていました。
さらに都護府(職業軍人による常備軍)を辺境の各地に設置することで、圧倒的な軍事力を維持していました。
 
 
この律令制で磐石な国家体制を築いた唐の首都、長安城の区画は、東西9721メートル、南北8652メートルで、面積は約90平方キロにもなりました。人口は100万の人々でひしめきあう国際的大都会として隆盛を極めます。
map_choan.gif

 
 
***************
対する倭国(日本)は、一般農民を法に基づいて画一的に徴兵し、その時々の政治的要請の有無にかかわらず維持されるような常備軍は存在しておらず、したがって唐の軍事力とは大きな隔たりがありました。
 
この圧倒的な軍事力の差に直面し、日本はその後、唐の律令制を全面的に取り入れていくことになります。
 
 
次回の記事では、奈良時代に焦点を当て、律令制を全面的に導入しつつどのようにして国家の体制を整えていったのかについて扱ってみたいと思います。

[9] [10] [11]