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【幕末維新の代理人】 <エントリーNO4>幕末の下級武士たちを突き動かした役割不全と私権不全

 ペリー来航を契機として、日本は尊皇攘夷が進んだと考えている人が一般的に多いとは思いますが、実はその前から、江戸時代中期くらいから、江戸幕府の現体制についてこのままででは発展できない、もしくは衰退していくのではないかという不満を持つ階級がではじめてきます。それはおもに下級武士という階級でした。
  
 江戸中期という時代は、平和に時代になり、商業が発展しつつある中で、上級武士が江戸という都市において参勤交代で消費・放蕩贅沢をしはじめ、借金をしはじめるころでした。年貢という限られた収入しかない(私権不全)、武力という役割の必要がなくなった(役割不全)武士階級のなかで、下級武士はもっとも発展が閉ざされることになり、これで良いのかという想いが芽生えはじめ、和訳された西洋書物などの紹介という蘭学の発達のなかで理論収束しはじめる人材が登場してくるのです。
 また商業が発達するなかで、西洋書物などの影響で商業に携わる人材からも理論収束しはじめる人材が登場し、農業からも一部登場します。
 幕末の英雄は、坂本龍馬や岩崎弥太郎などの下級武士たちです。彼らが、金貸したちの思想に傾倒していく条件が江戸時代中期以降の背景にありました。その時代、下級武士たちに役割不全と私権不全が芽生えていたのでした。今回はその時代背景について考えたいと思います。
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画像の確認 [1]
画像は、金貸しは国家を相手に金を貸す:世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く【歴史No.8 江戸時代とは武力支配から資力支配への移行期だった】
 より
というわけで、今回は、
『幕末維新の代理人』、<エントリーNO4>「幕末の下級武士たちを突き動かした役割不全と私権不全」 です!
シリーズ【幕末維新の代理人】では、海外の金貸しに手を貸した日本の代理人(エージェント)に焦点を当てて、現代も続く金貸し支配の構造を明らかにすることを目的として特集しています。


【武力支配から市場社会への転換 〜武士たちの私権不全の芽生え】
 まずは、江戸時代の中期ころの武士と商人の生活がどのようになっていたかを紹介します。武士の生活や役割、価値は下がる一方で、商人たちはあがっていく一方だということがわかります。江戸時代の社会は武力支配から市場社会へ転換されていきました。
るいネット 江戸時代の大名の財政悪化と大坂商人の支配 [2]から「商人と武士の関係」を紹介します。

江戸時代の大名は、大名の財政は悪化していきますが、それに伴い、年貢米を換金してくれる大坂商人に支配されていきました
 大名の財政は、年貢米を換金してくれる大坂商人に支配されていたといっても過言ではない。歴史の教科書には「鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで武士が政治を司る時代が続いた」と記されているが、江戸時代の大名の財政を左右したのは、まぎれもなく大坂商人であった。その大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていた。
 このことは、江戸時代の構造的な特徴を顕著に表わしている。戦国時代の大名は、収入(年貢米や金・銀、特産物など)を拡大させるために、隣国に攻め入り、領土を拡大し、その財産を奪った。もちろん、今日に至るまで「土地=財産」であるから、土地を略奪することが財産を増やすことであり、また収入を増やすための大名の基本的な仕事であった。これは戦国大名のシンプルな成長政策といえよう。
 武田信玄も織田信長も豊臣秀吉もすべてこの政策を貫いた。しかし、家康が江戸に幕府を開き、幕藩体制が固まるにつれ、大名は略奪という本来の生産手段と仕事を失い、領土の政治を行なうしか仕事はなかった。大名や幕僚には政治家や役人としての役割があったが、大多数の武士は単なる「消費生活者」に過ぎなかった。
 元禄期に入ると経済システムが整い、また人口も爆発的に増え、支出が増加していく一方で、年貢増収は頭打ちとなっていった。正確にいえば、年貢収入は一定だが、支出が増えていったのである。プライマリーバランスを均衡させるには、歳出を税金でまかなうしか方法はない。そこで、幕府や藩は、商人から税金を取ることを考えた。つまり、増税である。
 しかし、大名はローカル資本だけでは財政を運営できなくなっていた。当時は予期せぬ飢饉が年々も続き、米が不作になり、年貢米収入が激減したほか、幕府からの天下普請と呼ばれる公共事業への参加、冠婚葬祭や新たな将軍が誕生するたびに支出が生じていた。そこで、大名は主に大坂の商人から借金をして財政を運営することが日常的になっていた。すなわち、諸藩は「財政赤字」だったのである。しかも収入が伸びないまま借金を繰り返せば、それは永遠に完済できない。利息分だけでも支払えばマシな方で、元金の返済には手がまわらない大名も多くいたようだ。

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画像はこちら [3]からお借りしました。
【戦争のない江戸時代 〜役割不全に陥った武士たち】
日本を守るのに右も左もない 江戸時代の思想1 天下泰平で秩序安定期待が衰弱し、「民の生活」を忘れていった武士階級 [4]  から「江戸時代の武士」を一部引用して紹介します。

徳川幕藩体制によって秩序が安定すると(それは当たり前のことになって)秩序安定期待は衰弱する。かつ、武士は全て都市に集められ、村落共同体から切り離された市場の住人と化す。かつ、戦国時代までの武士の仕事(=戦争)がなくなる。つまり、武士たちは社会的期待も仕事も喪失し、役割不全に陥ったのである。
実際、「天下泰平」「御静謐の世」を実現した江戸時代には、心がすさんだ武士も多かった。
瑣事をきっかけに抜刀し、命を失う武士も多かった。井原西鶴は1688年刊『武家義理物語』の中で「自然の時のために知行をあたへ置かれし主命を忘れ、時の喧嘩、口論、自分の事に一命を捨つる」と述べている。あるいは、異様な服装・言葉遣いをし、恐ろしげな名称の集団を作って街をのし歩き、喧嘩を売り、乱暴狼藉を働く者がおり、さらには辻斬りをする者さえいた(かぶき者と呼ばれる)。『日本政治思想史(十七〜十九世紀)』(渡辺浩著 東京大学出版会)
このような無頼化した旗本奴と争った幡随院長兵衛は、弱きを助け強きをくじく男の中の男としてその後、芝居や講談の題材となった。
また、儒学者三輪執斎(1669−1744)の著によると、「口惜しや、畳の上ののたれ死に、目出た過ぎたる御世に生まれて」という辞世の句を残した武士もいたという。
そうなると、武士にとっては民の生活はもはや第一ではなくなり、この武士たちの役割不全を解消することが第一課題となる。これが「武士の役割は何か?」を観念化した思想が登場した理由である。
それが、山鹿素行の「農工商に人倫を示すこと」であり、大久保忠教(彦左衛門)の「御家の犬」であり、『葉隠』の「主君の御用に立つ」「武士道とは死ぬことと見つけたり」である。

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画像は映画「武士の家計簿」 [5]からお借りしました。武士の家族が「さかなの絵」をおかずにして食事をしています。
【理論収束した学者の登場】江戸時代中期から後期にかけて数々な学者たちが登場します。
詳しい紹介は次回以降にひきつぎますが、今回はどれだけ多くの学者が輩出したかイメージできるように人物名のみの紹介とします。リンクをクイックすると各学者の特徴がわかります。
 富永仲基  〜江戸時代大坂で儒教・仏教・神道を批判した町人学者 [6]
 山崎闇斎  〜江戸前期の儒者・朱子学者・神道家・思想家(神道と儒学を統合) [7]
 浅見絅斎  〜江戸時代の儒学者・思想家(尊王斥覇論) [8]
 関孝和   〜江戸時代の和算家(数学者) [9]
 石田梅岩  〜江戸時代の思想家(商人の営利活動を認め、勤勉と倹約を奨励) [10]
 本多利明  〜西洋を賛美した学者 [11] 
 三浦梅園  〜江戸時代の哲学者、気の哲学に開眼し,『玄論』と題する朱子学風の小さな論文を書く [12]   
 安藤昌益  〜大衆支配のための既成観念を全的に否定し、新概念を創出しようとした [13]
 荻生徂徠  〜市場拡大に歯止めをかける制度を構想した思想 [14]
 伊藤仁斎  〜京都町衆の中から生まれた思想(朱子学を全否定して現実の人間関係の充足を観念化) [15]
 吉田松陰  〜江戸時代後期の下級武士、思想家、教育者、兵学者、地域研究家 [16]
 佐藤信淵  〜江戸後期の経世家:鉱物学やそれに伴う地層学の研究家 [17]
 江戸後期敬義(崎門)学派の人々 [18]
 江戸後期の水戸学派の人々 [19]
 尊王思想の構築・寛政の三奇人 〜林子平、高山彦九郎、蒲生君平 [20]
【まとめ】
 江戸時代中期から後期にかけて、下級武士たちに役割不全と私権不全が芽生えていたのでした。そこで理論収束した武士や商人が登場してきました。
 幕末の英雄:坂本龍馬や岩崎弥太郎などの下級武士たちが生まれてきた背景が理解できたでしょう。彼らが、金貸したちの思想に傾倒していく条件が江戸時代中期以降の背景にありました。西洋の金貸したちが、彼らを洗脳していきました。こうして幕末の英雄たちは、海外の金貸しに手を貸した日本の代理人(エージェント)になったのでした。

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