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日本史から探る、脱市場の経済原理(4)〜日本で貨幣が浸透しなかったのは〜

前回までは律令制度によって国家や市場はどのように発展していったかを探ってきました。
今回は貨幣、中でも和同開珎にスポットを当てて、登場の背景と帰結を探ります。

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※参考図書 東野治之「貨幣の日本史」


貨幣の歴史は古く、殷王朝のタカラガイやその後の斉明刀なども貨幣と言われいます。この頃の貨幣は、贈与品だったり、権力を付与する証だったりと現代の市場社会とは異なる用途だったと思われます。

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貝貨 斉明刀


世界最古の鋳造貨幣は紀元前6、7世紀頃に現在のトルコに位置するリディア王国で作られました。
一方、東洋では紀元前3世紀頃に秦の始皇帝が、中国で初めて貨幣を統一しました。刀貨などばらばらであった貨幣を環銭(かんせん:5円玉のように円板の中心に丸or方形の穴の空いた銭)に統一したのも始皇帝です。

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世界初の鋳造通貨・リディアの通貨 開元通宝


 
◆日本の貨幣のはじまり
日本では近江京時代(667〜672)に「無文銀銭」と呼ばれる銀貨が使用されていたようです。これは鋳造されたものではなく、発見された枚数も少なく交換価値を伴った流通貨幣とは異なる利用方法だと思われます。
それは「厭勝銭」と呼ばれ、冠婚葬祭などの縁起物やお供えのような意味で、例えば新婚の寝床の四隅や、お墓に玉や琥珀などと共に添えられたものです。
 
今でも、地域によっては上棟式の餅まき・餅投げの際に5円玉や50円玉を撒く風習があり、その名残が伺えます。
 
その後、683年頃、「富本銭」と言われる日本で最初に作られた鋳造貨幣が登場します。富本銭やその後の「和同開珎」は、621年に唐で作られた「開元通宝」の影響を強く受けています。
 
一般的には、和同開珎は平城京遷都のための資金として発行されたとされています。それまで、畿内の土木工事は「庸」でまかなわれていましたが、平城京遷都は大工事ゆえ「庸」といった強制労働だけでは人手が足りず、現代で言う賃金労働者を雇わねばならず、そのための手段として国債を発行するように国家通貨を発行したのです。
和同開珎は当初、一文が一日の労賃とされ米4合に相当します。
 
政府は貨幣と米や麻布との交換レートを定め、貨幣流通の浸透を目論見ましたが、畿外で貨幣の価値が共認されず、米や塩を超えることには成りえませんでした。和同開珎もその価値が下落していきます。

しかしいくら貨幣で支払いがなされても、受け取った側がそれを必要な品と交換できないとしたら、この妙策もすぐ行き詰ってしまう。それを心配した政府は、銭と物資の交換が進むよう、様々な手をうった。例えば和銅5年10月には、労役のため都に駆り出された人々や、租税を納入に上京した民衆に銭を携行するよう勧め、帰郷する道中、その銭で食糧が買えるよう、沿道諸国に稲の拠出を命じている。しかし公稲の支出には制約もあったのか、翌6年3月になると、沿道の「豪富の家」に道ばたに米を置かせ、自由に売買させるよう命じた。平城京造営の役夫についていうなら、その労働の代償として政府の払った銭で、食糧を手に入れようとしても売り手がいないのでは、銭を握って餓死するというようなことも起こりかねない。それを改善し、売り惜しみを防ぐために出されたのが、この措置といえよう
※出典「貨幣の日本史」

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平城京


 
◆蓄銭叙位法(711年)
国家貨幣を流通させ、貨幣発行権の拡大を目論んだ政府ですが、交換価値が共認されぬまま、死蔵されて行きます。そうなれば、通貨の価値も下落し、かつ貨幣の材料である銅の不足も招いてしまいます。そこで、流通の促進と政府の財政改善を目論み発布されたのが「蓄銭叙位法」です。銭5貫(5千枚)と一位の交換で、上位になると10〜20貫との交換が必要となっています。要するに、地方豪族に銭貨で貴族身分を買わせる仕組みです。

その後、平安時代の中ごろにできた乾元大宝(けんげんたいほう)までの、およそ250年の間に12種類の銅銭が発行され、これを皇朝(こうちょう)12銭と呼んでいました。
しかし、時代が経つにつれて材料の不足から貨幣の質も落ち、形も小さくなったために、人々の信用も薄れて、都や地方の一部でしか流通していなかったのが、当時の実状でした。
日本の貨幣のあゆみ:三菱東京UFJ銀行 [1]

 
結局、蓄銭叙位法も90年で廃止され、その後、次々と貨幣が発行されましたが、地方にまで浸透することはなく、江戸時代まで全国に流通するような国家通貨は作られませんでした。


 
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鋳型に銅を流し込んで周囲を切り取って作られた富本銭

◆鋳造と鍛造
日本ではなぜ、和同開珎をはじめ、貨幣が長い間浸透しなかったのでしょうか。貨幣の製造方法にもヒントがありそうです。
中国や日本の貨幣は鋳造といい、金属を溶かし鋳型に流し込んで作ります。
ところが西洋では鍛造といって、定量の金属塊を表裏の型の間に挟み、瞬間的に大きな力で文様を打刻する方法で、鋳造よりも正確な量で作ることができます。現在の硬貨も鍛造です。
 

市場や商取引が盛んな西洋では等価交換を実現するために、金や銀などを材料として用いられ、質量とも定量な硬貨を必要としていました。一方、現在の紙幣のように国家の信用(権力)で通貨に実質価値(紙や銅)以上の交換価値を付したのが中国の貨幣であり、律令制度と共にそれを真似たのが和同開珎などの日本の貨幣です。

天皇の支配権、あるいは律令国家の権力は、全国均一に及んでいたわけではなく、実質的に強力に支配していたのは畿内のみ。言い換えれば、天皇とは畿内のみを支配するウチツクニの国造にすぎず、全国の国造のうちの最有力者であり、畿外はそれぞれの国造の領土だったと言うことです。国家は、畿外に対する緩い服属関係により維持されていたのです。
脱市場の経済原理(2)〜在地首長制をひきずった古代律令制度 [2]


 
 
◆まとめ
結果的に日本では貨幣の流通は停滞し失敗に終わったといえます。
その理由は二点です。
 
1.国家の力も地方に対しては大きくなく、貨幣の使用を強制的に押しつけることはできず、貴族の位も地方に確たる基盤を持つ地方豪族には魅力にはならなかった。
 
2.おそらく当時の市場取引は自由民ではなく、中心は国家官僚及び地方豪族であり、かつ西洋のように略奪中心の市場とは異なり、(さほど生産性の高くない時代の)余剰生産物である貢物を中心とした市(いち)では物々交換の域を超えられず、したがって自由市場も発達できなかった。
 
 
次回は庶民の暮らしから、国家や市場との関係を解明していきます。お楽しみに。

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