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日本史から探る、脱市場の経済原理(5)〜奈良時代の庶民の暮らしとは〜


(1)奈良時代に至る背景(支配者の変遷)と諸外国との関係
(2)在地首長制をひきずった古代律令制度
(3)徴税制度から民間流通へ、市場・商人の誕生
(4)日本で貨幣が浸透しなかったのは

これまで、古代日本の律令国家の諸制度や経済システムをみてきましたが、それでは当時の庶民の暮らしはどのようなものであったのでしょうか?律令制の導入により庶民の暮らしはどうなったのでしょうか?
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今回は、奈良時代の庶民の暮らしをみていきます。
(転載引用図書、サイト)
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと/鐘江宏之
万葉びとの「家族」誌 律令国家の衝撃/三浦佑之
日本の歴史をよみなおす/網野善彦
小・中学校のための学習教材の部屋 知識の泉 [1]



7,8世紀頃の人々が何を着て生活していたのか、とくに、庶民の服装はわからない点が多いようです。記録が残っている平城京内の写経所の場合で、支給された日常の作業着は上下ツーピースであり、もっとも日常的な麻布製であったそうです。一枚で縫製する単(ひとえ)、二枚で縫製する袷(あわせ)、袷の二枚の間に綿を入れる綿入といったつくり方があった。
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食事は一日二食で、あわの主食に野菜、山菜をいれた汁というそまつなものだった。ひどい時には、この食事にありつけない時もあった。 貴族たちは白米を食べていたが、庶民は「黒米」と呼ばれた玄米を食べていたと考えられている。中心部の都において、7世紀末には箸は出土しないが、8世紀末には多く出土している。箸の普及はこの頃からであると考えられている。
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土間に直に藁をしいて、竪穴式住居に暮らしていた。縄文時代以来、基本的な建築技術は変わっていない。四角い床面が主流。竪穴の壁ぎわに沿って溝が掘られたものや、壁土が崩れないように土留め材をめぐらせたものもあった。
竪穴式住居には竈(かまど)が設けられており、煙を屋外に出すために炊事の場は壁際に固定されるようになった。住居の面積は10〜20㎡の広さのものが多い。8畳の和室程度の広さで10人程度が住んでいたと考えられる。
国内の先進地帯(近畿、東海、中国地方)では地面の上に床を張った平地式の掘立柱建物による住居がみられる。地方では村の一区画に見られる。この付近からは帯飾りや硯など、役人的存在をうかがわせるものが出土することが多く、村の有力者は国家の末端とつながりをもつようになってきた。
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集団構成
律令制度の導入により、家父長制による「戸」の編成。具体的には、戸主を中核とした「戸籍」が整えられ、五十戸を一里とする最小行政単位が確立した。現存最古の戸籍の一つ「御野(美濃)国山方郡三井田里戸籍」(大宝二年)に記された、三井田里の総人口と年齢階梯ごとの成員数の記載がある。
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ほぼピラミッド型。1〜3歳の人口が他の年齢に比べてずいぶんと多いが、乳幼児の死亡率が高いことが伺える。平均寿命は35歳程度と推測されます。
重い税負担
6歳以上のすべての男女に一定の田が「班田」として貸し与えられ、それに対して租の納税が義務付けられた。租のほかに庸、調、雑徭という税が毎年課せられた。納税のための労働は「戸」の成員全体の負担となった。
官(おもに各国の国司)による種籾の貸付けは「公出挙」、個人による貸付けは「私出挙」。稲は基本的に国家が管理しており、誰でも春になれば借りるのが実情であった。実質的には、国家による強制貸付として機能していた。
税の重さは「貧窮問答歌」に以下のようにあります。

○里長が笞(むち)をもって家の奥までずかずかと入ってきて、「短き物を端きる(ほんの少ししかないものの端っこを切り落とす)
○老齢のために体もきかなくなった自分の体に病いまでが襲ってきて、昼も夜も苦しみ呻き続けていると歌う。もう、ほとほと死んでしまいたいと思うけれど、梅雨時にわき立ちうるさく飛び回るハエのように年端もいかずにむずがる幼な児をうち棄ててこのまま死んでしまうこともできず、また、その幼な児の姿を見ていると心に熱いものがこみ上げてもくる。


都市部においては出挙をめぐり、「日本霊異記」に以下の説話もでてくる。

「息子よ、お前は借りた稲を取り立てた。だから私もまた、お前に飲ませた乳の代価を要求する。」


まとめ
⇒律令制により班田を与えられたことで、否応なく農作をすることになる(≒農奴化)。庶民の生活は農作を中心に変化。
⇒領土を接する中国の高い戦争圧力と日本とでは全く外圧条件が異なるにも関わらず、中国の中央集権的な統合制度である律令制度をそのまま適用した。その結果、庶民は負担の重い税に耐えかねて浮浪や逃亡または偽籍を行うようになり、律令政府は徴税が困難になり崩壊していくことになる
中世においては納税している限り、移動の自由、武器の保持は認められるようになっています。庶民は自主管理運営(村落共同体)を強く志向し、律令制度が日本人によって変質していったと考えられます。
次回は「古代日本の思想・観念」についてです。お楽しみに。

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