2013-01-22

日本史から探る、脱市場の経済原理(8)〜平安後期〜鎌倉時代、「個人への課税」から「みんなへの課税」へ。荘園の二重支配体制に、庶民は自治を深めていく。

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>9世紀以降、中央の支配が畿外に及んでいくにしたがって、在地首長の伝統的権力が失われ、郡司層は没落。戸=個を対象とした中央からの厳密な賦課とそれを補填するための貸付制度(公出挙(くすいこ)、私出挙(しすいこ))の登場で、ひとびとの生活は困窮を極め、土地を捨てて逃亡する者も続出するのです。国家から農地を支給するという班田収授制度は成り立たなくなり、調庸制はくずれていきます。
日本史から探る、脱市場の経済原理(2)〜在地首長制をひきずった古代律令制度〜
班田制の崩壊は、奈良時代の早い時期から発生し、三世一身法(723年)→墾田永年私財法(743年)で、土地の永年私財を国が認めることになりました。大化の改新(645年)から数えても、日本の班田制(国家が土地を所有し分配する制度)は、100年続かなかったことになります。今回は、国が土地の私有化を認めて以降の税制、土地政策をたどります。
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画像はこちらからお借りしました。
■律令税制の崩壊〜個人税からみんなの税へ
新しい土地の開墾には多くの財力と労働力が必要で、必然的に貴族・寺社が墾田開発の主導権を握ることになります。これが「初期荘園」です。一方、さらに発展したのが「寄進型荘園」。実際に土地を開発するのは、国司として現地に赴任した中流貴族やその子孫、あるいは地方に成長した在地領主・地方豪族などですが、中央貴族の特権である免税権(不輸・不入の権)を得るために、中央貴族に寄進して名目上の所有者をその貴族とし、あらためて実質の開発者・所有者である自分たちを、「荘官」に任命してもらう。上級も中級・下級も、中央も地方も、支配階級はこぞって自らの私権を優先し、国の税制は崩壊寸前になります。
このような社会の実情に合わせ、税制改革が行われます。戸籍に記載された成人男性を中心に課税する「人頭税」の原則は、土地を基礎に徴税する「土地税」に転換。国司に対しても「戸籍をつくれ」「班田しろ」というのではなく、「すべて任せるから、その代わりノルマの分だけ税金を集めてくれ」という方針に転換しました(国司の徴税請負化)。これが「公領」です。国司の長は「受領」と呼ばれ、力( ≒経済力)をつけていきます。蓄財によって任国へ根を生やした受領の中には、任期後そのまま任国へ土着した者も多くいました。彼らはやがて、武士として「在地領主」に成長していきます。平安後期〜鎌倉中期においては、このような「荘園」と「公領」が並存する「荘園公領制」が税務体制の骨格となります。
ところで、荘園は「土地の私有化」の側面ばかりが強調されますが、納税者(=庶民)にとってみれば、「個人の課税」から「みんなの課税」に転換されたことを意味します。現代の感覚で言えば、(取れ高の多寡に関わらない)一律の個人税から、一律の法人税への転換、といったところだと思います。これは、南北朝争乱後(14世紀)に本格化する村落共同体=「惣村」形成に先駆けて、がんばって自分たちの集団を強くしよう、という農民の意識改革を促し、自治的な集団形成の基盤を与えた、ということができるのではないでしょうか。
荘園は名目所有者(中央貴族)と実質管理者=荘官(地方豪族や元国司)による二重支配でしたが、これは、律令初期における二重支配体制(中央政府による畿内と在地領主による畿外)を継承したといえなくもない。日本人は、二重支配によくよく飼いならされた民族、もっといえば二重支配体制は日本人の体質にあったものなのかもしれません。
さて、いよいよ、二重支配の象徴ともいえる時代の到来です。「朝廷」と「幕府」、あるいは「天皇・貴族」と「武士」。鎌倉時代の二元政治体制は税制や土地制度にも大きな影響を与えます。
■二重支配体制〜荘園領主と在地領主(地頭)
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鎌倉時代の社会の基礎をなす荘園制の原型は、平安後期における寄進地系荘園の形成によって築かれました。その特色は、土地・人民に対する荘園領主(本所・領家)、在地領主(下司・地頭等)の二重支配にあります。
幕府は、源平合戦や承久の乱で天皇や朝廷に対する反逆者である「謀反人」の所領を没収し、あらたに御家人となった在地領主(=武士)たちの、本領における土地支配権・収益権を保証する方策として、その在地領主を地頭に任命しました。地頭制度の成立です。
地頭が設置されても、表向きは、荘園制は否定されなかったし、地頭は(荘園領主を奉る)荘官そのものでした。さらに幕府は地頭の荘園侵略を抑止、形式的には地頭の設置により、荘園領主が打撃をこうむることはないはずでした。
しかし、他の荘官とちがって、荘園領主は地頭の任免権を持たなかった。地頭の設置が荘園体制に決定的な打撃を与えないという法的原則とは別に、事実上地頭が勢力を伸ばし、荘園を侵略していきました。鎌倉中期以降、この傾向はしだいに顕著になっていき、荘園の事実上の管理権が、荘園領主(中央貴族)に任免権のある荘官(寄進者たる開発領主)から、幕府に任免権のある地頭(御家人→在地領主)へ移っていきます。
幕府は本所領不介入主義をとり、荘園経営をはじめとする貴族・寺社の家政には介入せず、幕府法も幕府の支配範囲のみに適用されました。同様に在地領主たる御家人の領主権もまた、幕府の干渉の外に置かれ、御家人がその子を勘当したり、郎党に制裁を加えたり、所領を処分したりするのは、御家人の自由でした。農民支配もそのような領主権の一部であるから、一般に農民には幕府権力が直接及びませんでした。
したがって、農民にとっては、彼らに加えられる荘園領主、在地領主の支配が権力の全体であり、農民にとっての幕府、朝廷、国家等は存在しなかったのです。御家人の領主権は、いわば小専制国家に匹敵し、それら小国家の君主=御家人が、鎌倉殿=幕府との間に結んだ人的結合(御家人制)こそが、幕府の体制的支柱。幕府の支配体制が政治的に安定し、皇位まで干渉するに至った反面、幕府も朝廷も荘園領主、在地領主の領主権に干渉しないという権力の著しい分散性、支配の多元性こそが、平安後期以来の特色といえます。
荘園領主と地頭の二重支配が進むにつれ、両者の対立が表面化しますが、結局は、地頭の一円領主化(単一の領主による排他的な支配の実現)で、荘園制は崩壊します。一方、庶民(農民)は、上同士の対立を尻目に、「支配階級の不介入」、「権力の分散」という二重支配体制のスキマを縫うように自治・自給の共同体の組織化を模索、やがて「惣」という組織体制に行き着き、国家を底辺から支えていくことになります。そこに行く前に、さらに鎌倉時代を掘り下げるべく、「職人」階層の発生とその背景を読み解いていきます。

List    投稿者 urara | 2013-01-22 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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