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日本史から探る脱市場の経済原理(9)〜中世に見る「日本のものづくり」、「職人」の発展〜

 前回の記事(リンク [1])では、律令制が崩壊した後世の「朝廷」と「幕府」による二重支配体制から、その税制や土地制度をたどりました。
 これと時代を同じくして、中世の日本では中国に日本刀が渡り、農業技術が格段に上がり、鉄製の鍋などの生活用品も普及しだした時代でもあります。今回の記事では、律令制下で土地に縛り付けられていた人びとが、その制約から徐々に解かれていくと同時に萌芽していった、精巧な日本のものづくりの原点に焦点を当てていきたいと思います。
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平安末期から鎌倉初期の刀工による日本刀
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●農業生産の向上による余力の発生
 平安〜鎌倉時代は多くの農業技術の進歩が見られた。(草木灰.刈敷(草を土の中に埋めてまく)など肥料の改良、鋤・鍬などの鉄製農具の使用、灌漑技術の進歩など)
これらにより生産効率が上昇し、農民たちには余力が生まれ始め、職人の仕事にも着手できるようになってきた。
  
●職人の独立
 平安中期ごろまでさまざまな専門的知識をもとにして様々な工業製品をつくる職人の需要が小さく、朝廷の諸々の役所に隷属したり、大きな寺院や神社に隷属していた。この頃の職人は朝鮮系が多く、技術とともに流入してきた人たちである。職人という身分が定着することも無く、農業を営みながらも小さな需要に応える、便利屋程度の位置づけであった。
 しかし各地で農業→商業が発展した平安後期になってくると、あちこちに新たな需要が生まれる。その需要を満たすために、職人が諸国を巡って各地で工業製品を作り、市で売買するようになった。技術の伝承もだいぶ進み、農民出身の職人も増え始めていた。彼らは以前同様に有力な中央貴族や有力な寺社に隷属する形をとっていたが、その奉仕の見かえりに、諸税の免除や諸国自由通交権などの特権を得た。職人という身分が重宝されだし、律令制の元で土地に縛られていた状態から、特権により自由に動き回れるようになったのだ。日本らしい、腕っ節一本で稼ぐ職人の始まりと言える。こうして貴族や寺社の庇護を受けた商工業者を「神人(じんにん)」「寄人(よりうど)」などと呼んだ。逆に朝廷側も職人たちに特権を与えるなどして「供御人(くごにん)」と呼び、荘園側への流出をあわてて食い止めていた。彼ら商人や手工業者の朝廷・貴族・寺社からの独立の度合いは拡大し、鎌倉後期には自治組織である「座」を結成し始める。
 

○参考
「神人(じんにん)」=「荘園に隷属する商人」
「寄人(よりうど)」=「荘園に隷属する職人」
「供御人(くごにん)」=「朝廷に隷属する商人、職人」
 この時の「神人」「寄人」「供御人」という称号は、有力者たちにそれぞれの職能を根拠として品物を納める「職(しき)」を得た人という意味であり、だからこそ後にこれらの商人や手工業者が「職人(しきにん)」と呼ばれたのだ。そしてこの「職人(しきにん)」の中には、荘園や公領の荘官や地頭などにつく武士も含まれており、荘官・地頭などは、それぞれの地の管理と年貢の徴収をこととする「職(しき)」を得た人という意味であった。

 
さらに、各地の需要の拡大とともに、彼らの一部が地方に定着し、そこで生産を継続するようになった。こうして地方にも専門的な「職人」が生まれるようになった。鋳物職人(ex.なべ、かま)や鍛冶職人(ex.すき、くわ)などである。鎌倉後期になると『職人歌合』とよばれる歌集が出るほど職種が増加した。専門分化が進んでいたことも伺える。
中世職能民職種一覧 [2]
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上:油売り 下:馬借 
 
※各地での手工業発展の裏には、外国貿易の発展も寄与している。例えば京都を代表する西陣織である。ここで高級な綾織が作られるようになったのは、中国との貿易で高級な綾織を大量に輸入し、貴族階級の愛用による需要が拡大したからである。そしてこの綾織は外国貿易の成功率が自然条件や政治条件に左右され不安定である事から、これを安定的に供給し高い利益を得ようとし、技術が工夫され、ついには中国渡りの綾織に劣らない製品を生み出す。これが西陣織発展の背景である。
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 西陣織
 
 
●市

 平安時代末には各地の国府およびその近辺で定期的な市が開かれており、そこには都市といってもよいほどの集落が発展していた事は、最近の発掘結果でもわかる。そして各地の市を貫いた海路と陸路が整備され、そこで運送業をなりわいとした商人集団も生まれていた。
 この市は、神聖な場所、人と神とが交歓できる場に開かれていた。品物にはそれを作った人の魂が込められていると昔の人は観念していた
 したがってそれを他の人の所有物にするには、その魂を入れ替えねばならない。そしてこのようなことが出来るのは、人と神とが交歓できる聖なる場所でのみ可能だとも考えていた。こういった理由から、交通の要所(川や湖や海と陸路の出会う場所)や、寺社の門前に市が開かれた。それに伴い、市が開かれる日は「斎日」という神を祀る日であった。
引用:『「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー』
リンク [3]
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 市の様子
 

●職人の発展→特権商人の成長
 こうして職人の活動が盛んになると、鎌倉時代末には物資の輸送を管理する「問丸」や、それが発展して商品の中継ぎをするようになった「問屋」、馬に荷物を乗せて運ぶ「馬借」、高利貸をいとなむ「土倉」や「酒屋」など、特権商人が活躍するようになった。土倉や酒屋はその財力を背景にして朝廷や貴族・寺社などのそれぞれの所領からの年貢の徴収を請け負い、権門の財政を事実上担う存在になっていた。これらの特権商人は大都市に集住し、しだいにその財力を背景にして、他の商人や手工業者を統制する存在になっていった。〜特権商人の例 [3]
 

職人は、誰かに仕える形から解放されたことにより、とことん需要に応えること、技術の向上が求められるようになった。技術が中国からの技術の流入であり、それを日本の需要に合わせて洗練させていく、現代の日本にも見られる特徴である。

 
参考図書:『日本中世に何が起きたか』網野善彦著

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