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【幕末維新の代理人】代理人認定#4 大久保利通 〜大久保利通が作った体制は金貸しに貢献したが、彼は代理人だったのか〜

 大久保利通は、維新の三傑(西郷、大久保、桂)の一人。殖産興業(欧米に追いつき追い越す)、富国強兵(武士身分の廃止、国を守るために農民まで兵士にしようとした)、廃藩置県による中央集権化などの実現に最も貢献しました。
 伊藤博文は大久保の遺志を継いで殖産興業、富国強兵を旗印に、政治的には立憲君主制に基づく中央集権国家の確立、経済的には近代資本主義の確立に向って邁進していきました。
 結果的に大久保が礎を築き、伊藤がその意思を継いで金貸しが目指す世の中に変えたと言う事になります。はたして、大久保利通は金貸しの手先だったのでしょうか。伊藤とはどのようなつながりがあったのでしょうか。
 西野神社のブログ:大久保利通という漢の生き様 [1]
から大久保利通の紹介をしながら、解説します。
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画像はこちら [3]からお借りしました。


【大久保利通の生い立ち】

 大久保利通は、天保元年(1830年)8月10日、南海の雄藩・薩摩藩の鹿児島城下 高麗町で、琉球貿易を管轄する琉球館に勤めていた大久保利世の長男として生まれました。大久保家の家格は御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる身分の下級藩士で、大久保は幼少期に高麗町から甲突川対岸の加治屋町に移住し、そこで親友の西郷隆盛らと共に学問を学びました。
 この加治屋町は、戸数僅か七十余の下級武士町でしたが、その小さな町内から西郷隆盛、その弟の従道(海軍大臣、内務大臣、元老として活躍。海軍軍人としては初めての元帥)、大山巖(日清戦争では陸軍大将として、日露戦争では陸軍元帥として共に日本の勝利に貢献。参謀総長・内務大臣・元老などを歴任)や東郷平八郎(海軍元帥。乃木希典と並び称された日露戦争の英雄。ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ世界三大提督の一人)といった豪傑達を輩出した事で有名です。

 
 大久保利通の血筋は、長州田布施出身者などの民族色(南朝か?)があるわけなく、日本のためを純粋に想って(出身藩に関係なく分け隔てなく人材登用したなど)活動できる生い立ちだったのではないかと想像します。
【大久保利通の主な活動】

 薩長土肥の藩士達が中心となった明治新政府が成立すると、大久保は参与、参議を務め、旧藩主達や多くの士族の反対を押し切って廃藩置県や版籍奉還などの政策を次々と断行し、中央集権国家の確立に奔走しました。
 明治政府が掲げたスローガンとしては、特に「殖産興業」と「富国強兵」が有名ですが、大久保はそのいずれの政策にも深く関わり、欧米列強に比べて遥かに遅れていた日本の近代化を促進するため、官営の鉱山や工場を立ち上げ、先進諸国の機械設備や技術を導入して、日本の工業化を積極的に進めました(官営工場の多くは民間に払い下げられ、その後も長く稼動されました)。また、日本と同じ島国であるイギリスを視察した際、イギリスの国力を支えているのは貿易であるという意識を持った大久保は海運業も重視し、明治8年には岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、同社はアメリカやイギリスの汽船会社を締め出して上海航路を独占する事に成功しました。

 アメリカやイギリスの汽船会社を締め出して上海航路を日本が独占する事に成功したことは評価できます。ただし、岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助したということは、ロスチャイルド系に貢献したのかと勘ぐりたくもなります。三菱は実はロスチャイルドの子会社のようなものだったとまでは認知していなかったのかもしれません。

 それ以外にも、大久保は西洋農法の導入も重視し、東大農学部や東京農工大学農学部の前身となった駒場農学校を設立したり、福島県郡山市に疎水を建設して荒野を水田に変えるなど、大久保が日本の近代化に果たした功績は実に大きなものがあります。
 大久保が政権内で実力者たり得るきっかけになったのは「内務省」の創設です。内務省は、殖産興業、交通、通信、土木、衛生、警察、消防、都市計画、地方行政などを管轄する中央行政機関で、現在でいえば財務省・外務省・防衛省以外のほぼ全ての省庁を兼ねている、日本の歴史上稀に見る程の強大な権力を有した省庁でした。
 伊藤博文や大隈重信といった実力者達が後の政権を支えた事も、大久保の改革の成果でした。伊藤や大隈らは、出身藩だけに偏らない人事と世代刷新を掲げた大久保に引き立てられたともいえるのです(伊藤も大熊も薩摩の出身ではありません)。大久保暗殺の翌日、空席となった内務卿のポストには伊藤が就任し、伊藤は大久保の遺志を継いで殖産興業、富国強兵を旗印に、政治的には立憲君主制に基づく中央集権国家の確立、経済的には近代資本主義の確立に向って邁進していきました。

 
 大久保が独裁体制を敷いた目的は、日本を列強の植民地にしない、ということに尽きます。そのための殖産興業(欧米に追いつき追い越す)であり、富国強兵(武士身分の廃止、国を守るために農民まで兵士にしようとした)廃藩置県による中央集権化だったのです。
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画像はこちら [4]からお借りしました。
【大久保の純粋な日本への想い】

 大久保は、冷徹で非人情、時には狡猾とも評されながらも、日本の近代化という大義のために私情を殺し、死をも覚悟して(明治6年に西郷を下野させた時点で、既に大久保は自分は殺されるであろう事を意味する文章を書いています)あえて強権的な政治を行いました。日本のためには、武士たちを大事にしようと考えた盟友・西郷をも切る非情な決断力がありました。強靭な意志力と、それを支える情熱的な使命感のもと、国家国民のための大義に命を投げ出してテロに倒れた大久保は、粘り強い意思で新しい時代を切り開いた熱き漢(おとこ)でした。
 大久保が暗殺された後、遺族が遺産を整理した所、驚くべき事実が明らかになりました。大久保は政府の中で専制的な支配力を築き上げた絶大な権力者でしたから、誰もが莫大な遺産を遺しているのだろうと思っていたのですが、実際には、僅か数百円の現金しか残しておらず、それどころか、借金が8,000円(現在の金額で約2.4億円)もあったのです。しかもその借金は全て、不足した公金を賄うために大久保が自分名義で借りた借金で、国家づくりのために、大久保が個人的に親しくしていた人達から借りたものだったのです。当時、政府は多くの公的事業を推し進めていましたが財源不足に陥っていたため、大久保は友人や知人から個人的に借り集めたお金をその財源に注ぎ込んでいたのです。大久保は、政権中枢にいて巨万の富を得る事も不可能ではなかった時代に、最期まで清廉を貫いた人だったのです。

 大久保は、国内政治が征韓論で揺れる中、岩倉使節団の一人としてヨーロッパを巡り、蒸気機関の発達を目の当たりにしました。帰国後、「殖産興業」を目指すようになります。しかし、当時の政府の上層部はほとんど理解を示さない。殖産興業を徹底させるためには独裁体制を敷くことが必要で、そのためには考えの異なる西郷、江藤をもきりました。大久保が独裁体制を敷いた目的は、日本を列強の植民地にしない、ということに尽きます。そのための殖産興業であり、富国強兵だったのです。大久保は厳格にして質素。新政府内務省時代、内務省執務室で、伊藤博文、大隈重信、西郷従道などは相当にチャランポランで前夜の酒宴、芸子遊びの話などで無駄口で騒いでいたが、大久保内務卿が登庁するや静まり返り、厳格な空気に塗り替えられるほどだったということです。大久保没後、「大久保公が存命であったら我が邦の風儀もこうは堕落しなかったろう」(河瀬秀治氏)と言わせています。
 大久保は日本のために出身藩に関係なく分け隔てなく人材登用をしました。有能と思って伊藤博文らを登用したのでした。ただし大久保が後継者に伊藤を推していたわけではありません。初代首相任命時には彼の出自は大和時代の最後に日本に来た朝鮮人の部族(長州田布施出身)で、日本のことよりも自分たちの部族が大切で、そのためなら、欧米や金貸しに日本を売るかもしれない人たち(どちらかと言うと南朝か)とはく認知していたのでしょうか。 長州田布施については以下のような紹介サイトがあります。
るいネット: 政治家、権力者を多く輩出した謎の地域:田布施町(長州と薩摩と河内にもあった) [5]
 伊藤博文は女好きで有名で、そのひとつに次にようなエピソードもあります。明治の元勲伊藤博文は、女遊びがいきすぎて、とんでもないことをしでかしたことがあったのです。岩倉具視の長女戸田伯爵夫人極子を鹿鳴館時代の舞踏会日比谷の原で茂みに連れ込んでやってしまったのです。これは周囲にばれてしまい、新聞なんかでも「破廉恥男」として罵られました。暴行したそのお詫びというか免罪かもみ消しのつもりで、一ヵ月後に突然、戸田伯爵をオーストリアの特命全権公使に任命したのでした。その人物なりを大久保が見抜いていなかったとは思えません。こちら [6]から紹介
【大久保が後継者に伊藤を推していたわけではなかった】
 

明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。

 ウイキペディア [7]から一部引用。
 大久保が後継者に伊藤を推していたわけではありませんでした。井上馨と山縣有朋が誘導したということです。
 独裁体制が成立したと思われた矢先、リストラされた武士:島田らに暗殺されます。大久保49歳のときでした。馬車に乗っていたところを襲撃されて命を落としました。世にいう「紀尾井町の変」です。襲撃されたとき、馬車のなかで大久保は西郷の手紙を読んでいたといわれています。島田らの暗殺計画が警察のトップである大警視(現在の警視総監)に複数のルートを経て知らされていたのですが、「石川県人に何が出来るか」と相手にしないまま、放置した、との説があります。首相クラスの人物が襲われるかもしれないという情報があって、何もしないというのはあまりにも不自然です。
 長州田布施出身者や金貸しから見れば、これ以上大久保には活躍してもらう必要がなくなった、または邪魔になった時期でした。もしかすると大久保は、伊藤博文らの実態に気がついたのでしょうか。もしかするとリストラされた武士は裏でたきつけられたのかもしれないですね。
 大久保は結果的には金貸したちの役に立ったが、利用価値がなくなったら(邪魔になったら、金貸しの言う事を聞かないから)葬り去られたということになるのではないでしょうか。

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