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【幕末維新の代理人】代理人認定#5 〜トーマス・ブレーク・グラバーの陰謀〜

明治維新の歴史に登場するグラバー、しかし、史実としてその残されたものは少ない。
明治維新とは江戸幕府を崩壊させ、傀儡政権である新政府を成立させた歴史であり、その中心に居たのがグラバーなのだが、色々な立場を持ち、使い分けていたが故に見えてこないのであろうか?
パークス、サトウ、グラバーと、維新時に暗躍した面子の中でも、特にその行動に謎が多いのがグラバーの特徴だ。
三菱財閥がその史実隠蔽に奔走したとか、司馬遼太郎のような歴史美談欺瞞作家の影響であるとか、様々な原因が塗り重なっての事であろうが、ココではまず、その真実に迫ってみたい。
グラバーの基本的スタンスは、商売人だ。故に、商売拡大の為に、明治維新というクーデターを画策していた。
観光スポットにもなっている、グラバー邸 [1]で陰謀が段取りされていたのである。
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グラバーの来日まで [2]
1838年;スコットランドのブリッジ・オブ・ド−ンにうまれた。父はイギリス海軍の一等航海士。
1856年;19歳の時、阿片戦争後の上海に単身渡り、国際ビジネス感覚を身につけ、東アジア最大の貿易商社ジャーディン・マセソンに関係。
1859年;7月、21歳の時、来日。ジャーディン・マセソン商会の現地派遣社員として貿易商の経験を積んでいく。
・・・・・・商売人としての自立過程。
来日後のグラバー [2]
来日2年後独立。ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてトーマス・グラバー商会を設立。
デント商会、サッスーン商会などの大手商会ともエージェント契約を結び、1862年にはアーノルド商会、ブレイン・テート商会ともパートナー契約を結ぶ。
この頃、グラバー商会と名称を改め、茶の再生工場を手掛け、茶の輸出を主要な業務としていった。
1863年から1865年頃、グラバー商会は長崎からの茶の輸出量の20〜30%を占めるまでになる。
やがて幕末志士と絡み、あるいは反幕府的な雄藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げていく。
重ねて、対峙する旧幕府側のも武器を販売し、武器商人としての手腕を振るい始める。
(フリーメーソンの思想である)自由・平等・博愛(友愛)を勤王の志士達に培養していく。
五代友厚、寺島宗則、伊藤博文、井上馨、坂本龍馬・・・・・・何れも、グラバー邸に匿われた志士達である。
彼らを匿ったのがグラバー邸の隠し部屋 [3]
↓↓↓
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当時の商人宅に隠し部屋があるのは普通なのですが、グラバー邸のそれは天井まで高すぎて、隠し荷を出し入れできるものではないとの事。
商売人としての立ち位置は・・・・
ロスチャイルド⇒ジャーディンマセソン商会⇒グラバー商会
この関係の中で、上海で商売を学び、ジャーディンマセソン商会の長崎代理店に着任
茶の輸出に始まり、武器商人へと商売を拡大していった。
商売拡大には幕府が邪魔(若しくは、内戦が必要)。
薩長も(積年)同じ思いを抱いている。鎖国という名のもとで、貿易を幕府に取り上げられていたのだ。
まとまれば、一気に倒幕(+開国)へ向かうのだが、攘夷思想が邪魔をしていた。
薩長の「攘夷」派を一掃する為に、薩英戦争、下関戦争を続けて仕組んだのだ。
この仕組みを実行させるために活躍したエージェントが幕末の志士達である。
■薩英戦争で暗躍したのは、五代友厚、寺島宗則である。
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五代は、長崎海軍伝習所でグラバーと面識を持ち、薩摩藩の海軍増強方針に乗っかる形で、軍艦購入交渉を担い、グラバーと交わった。
グラバーのエージェント選びはこのパターンで行われていた。
長崎のグラバー商会には、公儀隠密から諸藩の諜報部員が多く出入りする。ここで、有能なエージェントを引き抜く。
そして、見込みがあると判断すると、グラバー邸に匿う。
一方の、寺島は、遣欧使節団としてロンドン帰り。
この二人は、薩英戦争の最中、捕虜として英国船に乗り込み、薩摩の砲撃対象を教えていたと言われている。
そうとしか考えられないくらい、正確に薩摩藩鹿児島にある、工場や火薬庫が正確に狙い撃ちされているのである。
■下関戦争で活躍したエージェントが、伊藤博文と井上馨である。
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長州ファイブの一員として、渡欧していたのだが、たったの数ヶ月で、下関戦争前に帰国している。
帰国後の手引きからして、グラバーが呼び戻したと考えられる。
伊藤博文と井上馨が帰国した経緯(wikiより ※一部編集)

1863年 薩英戦争勃発
 11月4日 井上ら5名はロンドンに到着
1864年(元治元年)
 3月 密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも
   幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」
   との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意。
 4月中旬  井上と伊藤はロンドンを発つ
 6月10日頃 2人は横浜に到着
   やがて英国公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して
   欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。
   書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。
 6月18日 英国艦に乗り豊後姫島まで送られる
 6月24日 山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても
   死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているとの事であった。

ここには、事実が隠されていると見るべきであろう。
当時の、伊藤、井上は、密航者である。攘夷に沸き返る国内を彼らが大手を振って動き回れるはずはない。
ましてや、藩主に戦争回避を意見するなどとんでもない話である。藩に戻り、謁見を申し入れたところで、切り殺されるのが落ちである。藩の実権は攘夷派が握っているのである。
彼らが、自国(長州藩)を憂いて、帰国を思い立つなど有り得ず、密航をお膳立てしてくれたグラバーからの要請に応じたと考えるのが自然である。
横浜で帰国を迎えたのは、グラバーであり、その後、長州藩までの帰路を援助+援護したのである。役者として・・・・・
長州の降伏密書を藩主から受け取りながら、四ヶ国連合艦隊の砲撃に間に合わなかったと言う演出を演じさせたのである。
結果、下関は砲撃され降伏、長州の攘夷派は一掃される。
因みに、その前のイギリス公使館焼き討ち事件にも、伊藤と井上が参加しているが、これも、英国内に向けて、武力行使の正当性を示す為に彼らエージェントが実行したとも言われている。
この焼き討ちの中心人物、高杉晋作も同様で、彼がグラバーに渡欧を熱望していた事は有名である。
この後、倒幕までの間、グラバーは武器商人として武器を新政府側に供与し続ける。
薩英戦争、下関戦争は共に武器販促の為のPRだったと言う側面もあり、まったく商売人として抜け目がない。
薩長同盟 ⇒戊辰戦争 →新政府成立
解かりやすい図解を紹介しておきます。
英国武器商人がグラバーだ! [4]
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新政府(明治政府)成立後、グラバー商会は倒産するが、グラバーは三菱財閥の顧問に転進する。
これはグラバーの商売替えだったのではないだろうか?
戦争屋グラバーが、武器代金の焦げ付きや、鉱山投資の失敗で、倒産の憂き目にいあうのだろうか?
ロスチャイルドの代理店としての三菱に鞍替えしたと考えるのが自然であろう。
今回は、代理人認定ではなく、主犯格認定です
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