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【幕末維新の代理人】代理人認定#11 岩崎弥太郎 第5回 捏造された三菱財閥史『田中光顕 作』

これまでこのシリーズで、三菱財閥の馴れ初めを追いかけてきた。
 
岩崎弥太郎時代=三菱財閥急成長の源流部分 を少し整理してみたい。
 
 
●三菱財閥急成長の源流
 
その一・・・・・始まり 
土佐藩時代。参政(藩行政の最高責任者)である後藤象二郎のもとで、岩崎弥太郎が開成館(1866〜)に勤めた。
 
開成館は、藩の軍備増強のために、武器購入、藩物産売買、藩札発行などを行っていた。
 
新円切替え時の、インサイダー取引のための藩札買占めなどは、この時代の利権を利用した。
 
その二・・・・・「いろは丸」事件(1867)
 
紀伊藩から支払われた賠償金は、龍馬暗殺後に支払われ、土佐商会(後藤象二郎&岩崎弥太郎)の手に渡る。
 三菱財閥の基礎資金となった。岩崎弥太郎語録「そのよろこびしるべしなり」はココで叫ばれる。
 
(龍馬暗殺に関しては後に述べるが、三菱財閥の歴史に田中光顕が登場するのはこの龍馬暗殺からだ。暗殺の執行部隊の一人として田中が、岩崎弥太郎の最大スキャンダルを握った事件だと言い得る。)
 
その三・・・・・廃藩置県(1871)
 
後藤象二郎、林有造の手腕によって、土佐藩の財産(大阪藩邸、土佐商会)の多くが三菱財閥の手に渡る。
 
土佐商会では、銃器、汽船の購入(=戦争屋)から、諸藩が外国商館から資金を借り入れる周旋役(=金貸し)をしていた。
 
藩の軍艦においては、一旦大蔵省へ引き取りの上、廉価で三菱財閥払い下げとなった。
 
この軍艦で台湾出兵時(1874)の軍事物資を運び、大儲けをしている。
 
この時、陸軍会計監督に任命されていた田中光顕が、力を振るっていたであろう。
 
その四・・・・・戦争商売
 
台湾出兵(1874年)、西南戦争(1877)で巨万の富を築く。
 
ここは、田中光顕と岩崎弥太郎のタッグで進めた。陸軍の会計責任者として田中光顕が便宜をはかり、三菱財閥に肩入れしたのは言うまでも無いだろう。
 
政府(岩倉具視&大久保利通など)に対して、政府70万ドル+三菱38万ドル=108万ドルで10隻の船を購入することを持ちかけた。
 
戦後、全ての船は三菱に「無償」で払い下げられた。
 
ココで口を利いた政治家が大隈重信であり、その後、三菱財閥は大隈重信に政治献金を続ける。
 
三菱財閥は、弥之助、久弥と引き継がれる中で、後藤象二郎、大隈重信、山形有朋と時の統合者との関係を利用した政商として成長したのである。
 
今回は、この三菱財閥の影で、政治家達とのパイプ役を担った人物を追いかけて行きます・・・・


  
●三菱財閥急成長の影に田中光顕有り
坂本龍馬暗殺後から、岩崎弥太郎と深く結びつき、三菱財閥を巨大化した人とされる。
近江屋事件(=龍馬暗殺)後、海援隊を岩崎弥太郎、陸援隊を田中光顕が引き継いだ形。
この時から、岩崎弥太郎(三菱財閥)と田中光顕の濃く危険な関係が始った。
実際、その後は、三菱という大きな力を背景にして、闇の世界の支配者に上り詰めたとも言われる。
また逆に、政商三菱財閥が統合者との関係を持ち続ける為のパイプ役を担ったのが田中光顕だ。
 
 
●田中光顕とは?・・・・歴史の表舞台に現れないフィクサーであり三菱財閥のロビイスト
(1843-1939年(昭和14年))土佐藩家老。
幕末の動乱期に、土佐勤王党→高杉晋作の弟子→中岡慎太郎の陸援隊に参加するなど、その活動は激しい。
1867年近江屋事件で、坂本龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎を引き継ぐかの様に陸援隊副長に納まったのを皮切りに、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。
また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任。
最終的には1898年(明治31年)、宮内大臣。
約11年間にわたり、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力を振るった。
1907年(明治40年)伯爵。
1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
その後、多くの歴史著書を残す。
岩倉使節団にも会計役として随行しており、明治新政府の要人の多くに寄り添って権力を拡大していった人。(大久保利通、伊藤博文、大隈重信、山形有朋etc)
・・・・ところが、このような事実は歴史の表に中々出てこない。歴史の捏造があるからだ・・・・・
岩崎弥太郎と田中光顕の関係の始まりとも言い得る、龍馬暗殺の真実は・・・・
 
 
●坂本龍馬の暗殺
歴史家の間では、新撰組、見廻組、真犯人説などが主流だが・・・・・?
龍馬が著した「閑愁録」(キリスト教で支配される危機感を綴った)に端を発している。
これを知ったイギリス公使パークス、外交官アーネストサトウ、長崎で布教していたフルベッキ等が、龍馬暗殺を計画(植民地化戦略上、キリスト教布教は前提条件なので)。
島津久光に「龍馬暗殺命令」を下し、西郷隆盛、大久保利通が動いた。
これを受けて薩摩藩士、吉井幸輔(パークス−サトウのエージェント)が、土佐藩山内容堂、後藤象二郎に訴え、隠れキリシタンでもあった、容堂は「龍馬のみならず、中岡慎太郎も消せ」と決断。
後藤象二郎から、福岡孝悌、谷干城、に具体的なプランが指示されて、実動隊は、谷干城、田中光顕、陸奥宗光となったと考えられる。
「そのよろこびしるべきなり」は龍馬暗殺計画が決定されたときに、岩崎弥太郎と後藤象二郎が叫んだ言葉だ。
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コチラ [1]から
 
 
●坂本龍馬はなぜ有名になったのか?
 
坂本龍馬は、日露戦争までは、一般的には、誰も知らない無名の人物だった。
1904年の新聞「時事新報」に書かれた「葉山の御夢」という記事で、一挙に有名人になったのである。
ロシアとの戦争に不安を抱く皇后陛下の夢に坂本龍馬が出てきて、「安心なされ」と語ってくれたという記事だ。・・・・これも当時の宮内大臣、田中光顕による捏造とされている。日露戦争に不安を抱く皇室の気運を一掃する為の御伽噺捏造である。
 
 
●歴史を隠蔽&捏造した真犯人は?
坂本龍馬暗殺、三菱財閥急成長の裏事実は、歴史に登場しない。
田中光顕が幹部として深く関わっていた日本史籍協会が、1915年から1935年までの間、187冊に上る維新関係の史料類を刊行している。これが、田中光顕の創作した歴史の出所であり、多くの歴史家がこの捏造歴史に翻弄されてきた。
ここで書いた様な、三菱財閥急成長の源流は、とても大衆に受けられるものではない。
三菱グループのHPを見ると三菱財閥の歴史は美しく取繕われている。
現代は、この大衆受けする「綺麗な」歴史が共有されてしまった。
歴史小説やノンフィクション、マスコミ(NHK大河ドラマetc)、歴史教育も悉く、この捏造歴史に染められているのである。
岩崎弥太郎と田中光顕は龍馬暗殺頃から密着し、工作資金は三菱財閥(弥太郎)、政治家との関係は田中光顕といった(おぞましい)二人三脚で明治時代をのし上ってきた。
田中光顕は長寿(95)であった事も有り、この歴史捏造をやり遂げた。
財閥の中で唯一明治以降の新興勢力である三菱財閥は、日本において金貸しの手法を最先端で実践してきた。
武器商人、人身売買、政商として国家に寄生してきたのである。
そして仕上げは、歴史の捏造で、全てを美化しておく。
岩崎弥太郎と田中光顕は日本における最強の金貸しタッグだったのかもしれない。
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  左;岩崎弥太郎 [2],右;田中光顕 [3]
 
 
以上、参照;「日本の本当の黒幕」(鬼塚英昭:成甲書房)

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