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金貸しは日本をどうする?~近現代の金貸しの戦略(2)19世紀以降の金貸しの台頭

中央銀行制度は無尽蔵とも言える資金貸付と戦費調達を可能にし、18世紀イギリスの産業革命を牽引するとともに、他国からの収奪ができる限り、国家と金貸しがともに潤う仕組みを構築した。イギリスは数々の植民地戦争に勝利し、19世紀には世界の過半を影響下におき、パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)と呼ばれる時代をもたらした。

近現代の金貸しの戦略(1)18世紀、中央銀行制度の確立 [1]

【植民地支配の限界】
一時は”パクス・ブリタニカ”を謳歌したイギリスだが、1880年代になるとアフリカ・太平洋諸島をめぐって、イギリスだけでなく欧米列強による分割戦が短期間のうちに激化していった。

1912の世界 [2]
地図はこちら [3]から

これらの背景には資本主義列強の国内産業構造の変化があった。19世紀末には銀行・証券企業の巨大化によって、過剰資本が蓄積され、海外にも有利な投資先が求められていた。東欧・インドなどに建設されていた鉄道はその先駆的なものであったが、技術革新による第2次産業革命は新しい天然資源を必要とした。その代表は石油とゴムであるが、錫・銅・亜鉛・ニッケル・硝石などの工業用に必要な金属はヨーロッパにはほとんど算出されず、すべてアフリカ・アジアの未開発地域に求めなければならなかった。そこで有利な資本投下を海外に求めていた金貸し資本家たちが、現在の安価な労働力を利用して、新しい企業(ゴム園・鉄道・油田など)を低開発地域で経営するようになった。

イギリスに続いてドイツ・フランス・アメリカ・ベルギーなども過剰資本投資地域の奪い合いから、国家単位の侵略的行動を進めるにあたり、植民地の確保=分割が19世紀末から20世紀初頭にかけて華々しくおこなわれた。

しかし、植民地戦争の財政負担は大きかった。1793年から1815年にかけてイギリスの軍事費は倍増し、政府予算の61%を占めた。このため国債の発行も1798年までに倍増し、国債は暴落し、利払い費が政府予算の30%を占めた。下図のようにイギリスの税負担は激増し、ナポレオン戦争時代の19世紀前半にはGDPの20%を超え、国債残高は200%を超えた。

イギリスの税負担 [4]
図 イギリスの税負担のGDP比(%) [5]

欧米列強によるアフリカ・太平洋諸島の分割が進んだことで、これ以上の植民地拡大の余地が無くなったことに加え、19世紀後半以降はほとんどの国の植民地はお荷物になり、それを維持するコストや軍事費が利益を上回るようになった。

20世紀になると、有利な投資先ではなくなった植民地にかわる新たな投資先を、国家と金貸しは求めるようになった。

【インフラ整備による市場拡大】
19世紀後半、石油を燃料とした内燃機関が発明されると、ダイムラーが世界最初の自動車を開発し、1903年に設立されたフォード社が自動車の大量生産を可能にした。
また、石油を燃料とする電力・電気が出現することで、より一層工業化が進み、蓄音機・映画・白熱灯の発明、さらには電気鉄道(電車)も生み出された。

これらの新しい高度化された産業は、より大きな資本を必要とし、労働力の集中もはかられたため、巨大な企業を生み出していった。いくつかの企業を合同したり、大企業が持株の所有で小企業(子会社)を支配するようになると、金融資本の資本力を必要とするため、産業界における金貸し影響力が大きくなった。

特にアメリカでは資本主義の発展が本格化し、1890年には工業生産がイギリスを抜いて世界第一位となり、ロックフェラーやカーネギーなどの大財閥は、経営の独占的支配体制を打ち立てた。

新たな投資先として国内産業に着目した国家と金貸しは、製造業への融資だけでなく原材料や製品の運搬に必要なインフラを整備することでさらなる産業の発達を促した。世界初の鉄道は1825年にイギリスのストックトン・ダーリントン間で開業し、1830年にはアメリカで、1832年にはフランスでと開業が続き、1830年代後半から各地で鉄道建設ラッシュが生じたが、20世紀前半には、原材料と製品の流通を担うインフラとして、相次いで各大陸で横断鉄道が整備された。

・1910年 アルゼンチンとチリを結ぶトランス・アンデス鉄道が開通。
・1916年 シベリア鉄道のロシア国内部分が完成し、全面開通。
・1917年 アメリカで鉄道の総延長距離が40万kmを超えピークに。
・1917年 オーストラリアで初の大陸横断鉄道が開業。
ウィキペディア [6]より)

日本においても、明治政府は「殖産興業」をスローガンに紡績業・製糸業、鉱業、鉄鋼業などの産業育成による近代化をめざし、1907年に鉄道が国有化されて以降は、貨物の輸送量が増大し、国内産業が飛躍的に発達した。

富岡製糸場 [7]
1872年に設立された富岡官営製糸工場 [7]

このように国家と金貸しがインフラに投資することで、20世紀前半に急速に産業が発達した。

【福祉政策による市場拡大】
しかし、急速な生産力の拡大が大きな社会現象を引き起こした。

当時の産業は、植民地の安価な労働力に加え、国内労働者の賃金を最低限に抑えることで最大限の利益を上げていたため、生産量に対して消費者の購買力が不足することになった。生産量が消費量を上回ると、企業の在庫が増大し、銀行への借り入れを返済できなくなることで倒産する企業が相次ぐことになる。失業者が増大すると、ますます消費者の購買力が減るという悪循環となり、1929年に世界規模の大恐慌が起こった。

その影響は、工業生産品に留まらず、購買力が弱いため農業物価格も下落し、農業恐慌も併発することになった。

国民所得の配分が著しく不平等であったため、消費を支える中産階級が成長していないことが原因であり、大恐慌以降は、労働者保護による購買力の促進や、国家資本導入による公共事業の拡大で、全国産業復興法(NIRA)やTVA設立など、最低賃金の設定や失業対策など、福祉政策による市場拡大を国家政策としておこなった。

日本においても、池田隼人の「所得倍増計画」や田中角栄の「福祉元年」なども同じ目的で、市場拡大の担い手である大衆の所得を増やすと同時に、国家資本を公共工事につぎ込んだ。
これは、大衆的な豊かさ要求にも合致した政策であったため、経済成長率10%以上という60年代の高度経済成長を実現した。

この市場拡大の好循環により、金貸しと大企業は順調に富を蓄積していった。

【まとめ】
近代は、金貸しが国家に資金を融資することで、国家主導で市場が拡大したが、その手法は以下の3つであった。

1.領土拡大(戦争・侵略)による市場拡大
2.産業育成(生産力増強)による市場拡大
3.福祉政策(バラマキ)による市場拡大

近現代の金貸しの戦略は、国家に金を使わせることで国家から利息を取ると同時に、市場拡大を図ることでも富を蓄積することであり、この金貸しの戦略は、その後も手を替え品を替え行われてる。
なお、市場が置かれている状況が大きく変わっているにもかかわらず、金貸しや国家からは新しい発想は登場せず、現在もこの100年前の手法を繰り返しているに過ぎない。

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