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国際情勢の大変動を見抜く!-8~プーチンに挑戦した新興財閥~

ソ連崩壊後の新生ロシアは、IMFの介入により民営化の方向に舵を切りました。IMFはいわば「民営化請負国際金融機関」で、金貸しが操る組織。エリツィンがその片棒を担ぎ、ロシアの天然資源の利権を奪っていく。ユダヤ系の新興財閥が外から入り込んで、政府にもその影響力を拡大していく。

 

それを阻止するために立ち上がったのがプーチン大統領。元々はこの新興財閥の画策で大統領に推されたが、民族派プーチンは彼らの指示には従わず、逆に彼らを締め出し、どんどん彼らの政治関与の道を閉ざしていく。

 

その中でも、メディア支配からの脱却にも照準を絞ったのは、さすが元KGB担当官。

新生ロシアを金貸し支配から救ったのは、紛れもなくプーチンだ。

 

 

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著) [1]からの紹介です。

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■■ロシアを支配する者が世界を支配する

■欧米首脳がソチ・オリンピック開会式をボイコットした理由

 

2014年2月のソチ・オリンピックの開会式に欧米首相はこぞって欠席しました。オランド仏首相によれば、プーチン大統領が同性愛結婚を認めないことが欠席の理由だというのです。しかし、そもそも同性愛結婚否認問題は開会式を欠席までして不快感を表明しなければならないほど重大な人権侵害に当たるのでしょうか。決してそうとは思えません。欧米首脳は人権問題を持ち出してプーチンに嫌がらせをしたというのが本音でしょう。

 

(中略)

 

欧米諸国はなぜプーチンに嫌がらせを行ったのでしょうか。2008年の中国と逆に考えれば、答えは出てきます。ロシアはまだグローバル市場に組み込まれていないからです。プーチン大統領がロシア市場のグローバル化に抵抗しているのです。そのようなプーチン大統領に対する欧米の警告でもあったと考えられます。その理由は、ソ連崩壊後のロシアに何が起きたかを検証することによって明らかになります。

■天然資源を奪うための民営化

 

1991年末のソ連崩壊後の新生ロシアに乗り込んできたのは、アメリカの新自由主義者でした。ハーバード大学のジェフェリー・サックス教授をヘッドとする市場民営化チームは、いわゆる「ショック療法」を実践しました。

 

ショック療法とは、一夜にしてソ連時代の統制経済を自由な市場経済に転換させる投手方です。時間をかけて一つひとつ課題を解決していく方法ではなく、何が何でも、どんな抵抗や混乱が起ころうとも、それらを無視して強権的に市場経済原理を導入したのです。その結果、ロシア経済がどうなるかは火を見るより明らかでした。物資の価格統制を廃止した途端、物価は「市場価格」を反映して急激に高騰し、インフレ率が80倍にも達するいわゆるハイパーインフレーションになったのです。ロシアの国内は生活基本物資を買うことさえできなくなってしまいました。

 

(中略)

 

ロシア政府はエリツィン大統領の下でガイダル首相代行とチュバイス副首相が中心となって、サックス教授やIMFの指導を実行しました。ロシア政府は国家財政立て直しのためにIMFの支援を仰がざるを得ませんでした。IMFが介入すれば何が起こるか、現在のウクライナ情勢で説明した通り。IMFの処方箋は今も昔も基本的に変わっていません。民営化請負国際金融機関と揶揄したくなるほど、民営化一本やりです。なぜそうなのかの理由はもう説明する必要はないでしょう。共産主義という国家統制経済から市場経済への移行こそ、IMFにとってはこんな実験場は他にないと胸躍るほどの腕の見せ所であったはずです。しかし、結論から言いますと、このショック療法とIMF改革は大失敗でした。

 

価格統制廃止による国民生活の大混乱については上述したとおりですが、もう一つの大失敗がありました。それは国営企業の民営化を実践するための「バウチャー方式」と呼ばれる政策でした。バウチャーとは一種の「民営化証券」のようなものでと理解すると分かり易いでしょう。バウチャーを集めて企業を立ち上げる資金にするか、或いはこのバウチャーで民間企業の株を買えということです。しかし、民間という概念がなかったロシアの人々にとって、バウチャーの意味を解れというほうが無理な相談です。結局一部のものがバウチャー方式の欠点を逆用して、無知の所有者から安値で買い集めて企業を立ち上げました。このようにして民間企業、特に銀行家が育っていったのです。

 

そして、次の段階に写ります。実はここからがロシアと欧米金融資本家との関係を知る上で極めて重要なことです。バウチャー制度を活用して生まれたロシアの民間銀行家たちは、今度は財政赤字に悩む政府に対し融資を申し出ます。後にも詳しく触れますが、このように政府に融資することが大金融資本家を生むメカニズムなのです。ロシア政府は二つ返事で銀行の融資を受け入れますが、天然資源の国営企業を有志の担保として取られたわけです。ロシア政府秤がお金を返せるはずがありません。かくして、ロシアの石油や鉱物資源などは民間銀行家の所有となってしまったわけです。

 

政府に金を貸して国営企業を手に入れた銀行家たちは、ロシアの新興財閥として経済社会の様々な分野を支配するようになりました。この新興財閥のことを「オルガルヒ」と呼びますが、ロシア政治を実質的に支配するようになったのです。かつては、民主化の旗手として名声をほしいままにしたエリツィン大統領は、これらオルガルヒの言うがままになってしまい、国民の支持率もわずか0.5%まで落ち込みました。

 

ロシア国民からは見放されたボリス・エリツィン大統領でしたが、欧米での人気は根強いものがありました。その理由はもうお分かりでしょう。ロシア経済とりわけ天然資源企業の民営化を実現したからです。ロシアの天然資源を掌握した民間財閥ができた次のステップは、欧米資本とロシア資本との合弁や合併、提携です。このような状況下で、2000年にエリツィンの後をついで大統領になったのがプーチンだったのです。

 

(後略)

 

■プーチンに挑戦した新興財閥

 

プーチンが大統領に就任した後、これら財閥とプーチンとの間には隙間風が吹き始めました。プーチン大統領は彼らに対し、ビジネスは尊重するので政治には介入しないように取引を持ちかけました。実はプーチンにエリツィン大統領の公認として白羽の矢を立てたのは、ベレゾフスキーだったのです。おそらく彼は、プーチンをエリツィンと同じように裏からコントロールできると思っていたのでしょう。プーチンを支持する政党「統一」を設立するほどでした。

 

ところが、プーチンは中央集権的な権力を強化して、権力の分散を防ぐことによって、政治への外部からの介入の道を閉ざしたのです。結局、ベレゾフスキーはプーチンを背後から操ることはできませんでした。しだいにベレゾフスキーはプーチンと距離を置き始め、ついにはイギリスに亡命してしまいます。その後彼はイギリスの自宅で自殺体となって発見されました。

 

ベレゾフスキーよりも早くプーチンに挑戦したのは、メディア王グシンスキーでした。主要なメディアを支配下においていたグシンスキーは、メディアを使ってプーチンを批判し続けましたが、逆に大統領就任直後のプーチンによって横領詐欺などの容疑で逮捕されてしまいます。グシンスキーは一旦釈放されますが、すぐにスペインへ亡命しました。

欧米にとってグシンスキーはロシアにおける言論の自由の象徴であり、プーチンによる逮捕は欧米の反発を招きました。ロシア国内でもこの逮捕は批判されました。メディアの影響力の強さと、メディアへの締め付けが世界的な反発を生むことが改めて照明されたような事件でした。

 

しかし、問題はメディアは果たして言論の自由の守護神であるのかということです。グシンスキーを頭から否定するわけではありませんが、本当に言論の自由が重要ならば、資金力にものを言わせて多くのメディアを支配下に置くことはしないはずではないでしょうか。メディアの独占が言論の自由を危うくするものであることは、言うまでもないからです。グシンスキーにはメディアを通じて政権に影響を及ぼすという狙いがあったことは明らかでしょう。

 

ここで、ロシアにとってもう一つの天然資源である天然ガスを巡る動きをまとめておきます。

現在のウクライナ危機の争点の一つは、ロシアによるウクライナへのガス供給問題です。本書執筆の時点(2014年7月末)現在、ガス問題は解決を見ていません。一言で言えば、ウクライナがガス供給価格が高すぎるとして交渉は決裂したままになっています。夏の時期はともかく、暖房が不可欠の秋以降にどうなるか、ウクライナ側も強気の一点張りでは押し通せないことは充分心得ているはずです。

 

現在のところは、ガス備蓄の余裕があるのでウクライナ政府も強気の姿勢を崩していませんが、私が気になる点が一つあります。それは、ガス交渉決裂時のヤツェニューク首相の発言です。彼は、「ウクライナはロシアの軍事増強に資することになるガス料金を支払う意図はない」と極めて挑発的な発言をしました。これは、ロシアに対する挑発であり、ガス価格交渉の枠組みを越えた下の言わざるを得ません。

 

実は、このヤツェニューク首相の発言に、今回のウクライナ危機の本質が伺えるのです。つまり、ウクライナはあらゆる事項を捉えて、ロシアを挑発するよう圧力を掛けられているのです。誰から圧力を掛けられているかは、明白です。今夏のウクライナ危機を演出したアメリカからです。

 

私が駐ウクライナ大使をしていた頃のロシアの駐ウクライナ大使は、ヴィクトル・チェルノムイルジン元首相でした。彼は職業外交官ではなく、いわゆる外交団との社交は全くしませんでした。私がチェルノムイルジン大使を会ったのは、ロシア国祭日のレセプションの際と、彼が外交団長を務めていたときの同僚の大使の送別会レセプションの時だけで、型どおりの挨拶を交わしたきり、会話はそれ以上進みませんでした。彼には日本に対する関心はなかったと思います。彼は首相になる前はガスプロムの社長でした。彼がウクライナ大使に派遣された唯一の理由は、ウクライナとのガス問題のためではなかったかと推察されます。

 

チェルノムイルジンの後を継いでガスプロムの社長になったのがレム・ビャヒレフで、プーチン大統領に解任される2001年まで社長職にありました。ビャヒレフの仕事ぶりに不満を持っていたプーチン大統領は、ガスプロムの社長に長年の友人たるミレルを据えました。39歳の若さで世界有数の企業の社長に就任したアレクセイ・ミレルは、現在に至るも社長に留まっています。ミレルはそれほどプーチンの信頼を得ているのです。

 

プーチンの知り合いというだけでなく、ミレルはそれまでの放漫経営を改め、がスプロムの資産価値を一時、世界第三位にまで押し上げるほどの経営手腕を発揮しました。ガスプロムはかつては脱税で悪名高かったのですが、今やロシアの国家収入の25パーセントを稼ぎ出しています。ウクライナは、この画スプロムと言う巨大企業と交渉しなければならないのです。このように紆余曲折はありましたが、ガス企業だけは新興財閥の手に渡らなかったことは、結果的にはロシア国民にとって幸いであったといえるでしょう。

 

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