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国際情勢の大変動を見抜く!-9~東欧カラー革命は対プーチン戦争~

ソロス [1] ロスチャ [2]

ソ連崩壊後の金貸しによるグローバル化、民営化によって登場した(主に)ユダヤ系新興財閥の主要メンバー達は、次々とプーチン大統領によって排除されていったが、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキー。

 

彼を支援したのが、イギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿とアメリカのキッシンジャー元国務長官。

 

因みに、キッシンジャーはご存知のとおり、ロックフェラーとの繋がりが深く、バリバリのネオコン派で、TPP、グローバル化推進では主に裏舞台で活躍してきた。ところが、近年はトランプ大統領と親近性を高め、中国習近平やプーチンとの関係をも深めており、民族派への転換が噂されている。(故に動きには注目していく。)

 

彼らを敵に回してもプーチン大統領は怯むことなく、ホドルコフスキーを逮捕投獄。石油利権が金貸しの手先に渡るのを見事に阻止した。

 

本丸の取り崩しが失敗に終わった金貸しは、今度は旧ソ連諸国、つまり外堀を埋める動きにでる。いわゆる東欧カラー革命がそうで、グルジアの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」、そしてキルギスの「チューリップ革命」すべて金貸しの画策です。

 

手口は三つとも判を押したようにすべて同じ。新露派の国家首長が選挙で勝利したが、不正選挙だとして市民デモや暴動が起き再選挙。結果、親欧米派が勝利を納めるというもの。

デモや暴動を扇動したのはいずれも反体制NGO。その黒幕はジョージ・ソロスという。そのシナリオ通りに事が進んだ。

 

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著) [3]からの紹介です。

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■ロシアの国富をアメリカ資本主義に譲り渡す行為

 

ベレゾフスキーとグシンスキーの追放以降、新興財閥による政治介入は収まったかに見えました。新興財閥の実力者の一人アブラモビッチは、今やロシア政治ではなくサッカーに関心を寄せています。イングランド・サッカーの名門チェルシーを所有しているのが、アブラモビッチなのです。

 

そうして政商としては腰砕けになった新興財閥の中で、最後までプーチン大統領に抵抗したのがミハイル・ホドルコフスキーでした。プーチン大統領とホドルコフスキーとの戦いはアメリカやイギリスを巻き込んだ国際的性格を帯びることになります。この闘争の内実を理解することが、現在のウクライナ危機の本質を理解することにつながります。

 

プーチンとホドルコフスキーの対決は、2003年に決戦を迎えました。プーチン大統領は、石油王手ユーコスの社長であったホドルコフスキーを逮捕したのです。10月のことでした。表向きの理由は脱税です。脱税容疑は単なる逮捕の口実ではありません。実際、ホドルコフスキーは国内オフショア制度を悪用して、他の主要な石油会社が24パーセントの税金を払っているにもかかわらず、わずか12パーセントしか払わなかったのです。しかし、逮捕の本当の理由はホドルコフスキーがプーチンとの約束を破って政治に口を出したことでしょう。

 

彼は、プーチンに反対する政党をイデオロギーに関係なく反プーチンであるという理由だけで支援したり、自ら2008年の大統領選挙への出馬を公言するようになりました。プーチンにしてみれば、ビジネスに特化していれば少々の脱税くらいは目をつぶることができたのかもしれませんが、自らの政治生命に挑戦するがごとき挑発行為は決して許せないと感じたことは想像に難くありません。

 

もう一つの決定的理由は、ホドルコフスキーと欧米との緊密な関係です。ユダヤ系のホドルコフスキーは当然欧米のユダヤ系の指導者たちと親しい関係にありました。その一人がイギリスのジェイコブ・ロスチャイルド卿でした。ホドルコフスキーはロスチャイルド卿と組んでNGOの「オープン・ロシア財団」をロンドンに設立しました。読んで字の通り、「ロシアを欧米世界に開放する」というもので、ロシア民族主義者たるプーチンを刺激する活動です。続いて、アメリカにも事務所を開設、なんとユダヤ人のキッシンジャーを理事に招聘するのです。こうなると偶然ではなく、ユダヤ系であるホドルコフスキーが欧米の主要なユダヤ人脈を意図的に活用したといえそうです。

この欧米との関係緊密化は財団設立にとどまりませんでした。最終的にプーチンにホドルコフスキー逮捕を決断させたのは、アメリカ石油メジャーとユーコスとの提携問題であったと思います。ユーコスはシブネフチ(アブラモビッチ所有)のと合併することになっており、この世界有数のロシア石油会社はアメリカ石油メジャーのシェブロンやエクソンモービルに40パーセントにも及ぶ株を売却する交渉が進んでいたのです。

 

この一連の動きは、プーチンにとってロシア国家の富をアメリカ資本に事実上譲り渡す行為と映ったとしても不思議ではありません。ここに、プーチンはユーコスつぶしを決断し、ホドルコフスキーを逮捕投獄し、結局彼はシベリアの刑務所に服役することになりました。ホドルコフスキー事件をめぐる一連の動きについては、栢俊彦『株式会社ロシア―渾沌から甦るビジネスシステム』が参考になります。

 

ホドルコフスキーは、昨年末にプーチン大統領に恩赦され出所しました。このことと、ウクライナ危機とは連動しているのではないでしょうか。本書ではこれを検証する余裕はありませんが、今後のロシアと欧米との関係を見るうえで、関連性を頭に入れておく必要はありそうです。

 

ホドルコフスキー逮捕投獄を機に新たな米露冷戦がはじまったと見られます。世界のメディアは、2007年2月のミュンヘン安保会議におけるプーチン大統領のアメリカ避難スピーチをもって新冷戦の開始と伝えましたが、実際には2003年の10月に始まっていたのです。以後今日まで、メドベージェフ大統領時代の米露関係リセット時代はありましたが、ロシアとアメリカは基本的には冷戦状態が続いているのです。

 

2003年という年に注目してください。3月にはアメリカのイラク攻撃が始まり、アメリカの勝利とともに、イラクの石油はアメリカの資本が押さえました。イラク戦争は大量破壊兵器を保有するイラクを予防攻撃した戦争ではなく、イラクの石油をアメリカが奪うための戦争であったのです。これによって、アメリカは世界の主要な産油国を抑えたことになります。残った主要石油大国は、イランとリビアを除けばロシアだったのです。したがって、ホドルコフスキーが逮捕され、やがてユーコスが解体されたことは、世界の石油支配の完成を目指すアメリカのメジャーにとっては大きな後退だったのです。

 

それから数年後、チュニジアをはじめ突如「アラブの春」減少と称される民主化運動が北アフリカ諸国に吹き荒れます。その結果チュニジアやエジプトで政変が起こりましたが、一連の民主化運動の真の狙いは産油国リビアであったことは想像に固くありません。世俗政権として国内を安定化し、それなりの反映を達成したリビアのカダフィ大佐は虐殺されました。カダフィ政権を倒すことで「民主化」が成功したとされたのです。しかし、リビアはいまだにテロが横行し民主主義も実現されていません。いったい誰のための民主化運動だったのでしょうか。

 

 

■東欧カラー革命は対プーチン戦争

 

ユーコス事件を受けて、アメリカはどう対応したのでしょうか。アメリカはロシアのおひざ元旧ソ連諸国で反撃に出たのです。2003年11月のグルジア「バラ革命」に始まる東欧カラー革命です。グルジアでは、ソ連時代の新思考外交で知られたエドゥアルド・シェワルナッゼ元外相が、1995年以来大統領に就任していました。シェワルナッゼ大統領は当初親米路線をとっていましたが、ロシアの圧力もあって次第にロシアに近づくようになっていました。そこで、親米政権を樹立するために起こったのがバラ革命なのです。

 

アメリカの法律事務所出身のミヘイル・サーカシビリがシェワルナッゼの対抗馬として議会選挙が行われました。結果は、シェワルナッゼの与党「新グルジア」が21パーセントで第一位、サーカシビリ率いる「国民運動」が18パーセントで二位となりました。ところが、ここで選挙には不正があったとして、野党勢力のデモが発生したのです。デモ隊は議会を占拠するまで暴徒化し、その結果、シェワルナッゼ大統領は辞任してサーカシビリが大統領に就くことになりました。これが「バラ革命」と呼ばれるものです。

 

この革命がアメリカによって演出されたことは今や世界の常識になっています。前線活躍したのが、ジョージ・ソロスでした。彼は、旧ソ連圏諸国の民主化や市場経済化を支援する「オープン・ソサイエティ」を立ち上げて、資金援助を行ってきました。ソロスはグルジアに「オープン・ソサイエティ」の支部を設立し、反政府のグルジアNGOを育成します。このNGOが反政府デモを主導したのです。

 

もう一つ、選挙結果を不正であると決めつけた原因は、選挙監視に当たったアメリカの調査会社が投票所の出口調査でサーカシビリ陣営の勝利を発表したことです。正規の選挙管理委員会の発表はシェワルナッゼ陣営の勝利でした。これを受けサーカシビリ派のデモが起こったのです。このパターンをよく覚えておいてください。以下に述べるように、その後も同様の手法でアメリカは親米政権を成立させていきます。

 

2004年にはウクライナで今度は「オレンジ革命」が起こりました。11月に行われた大統領選挙は、親露派のヤヌコビッチ首相と欧米が推すユーシチェンコ元首相との争いとなり、決選投票でヤヌコビッチ候補が勝利しました。しかしここで、この選挙は不正であるとして敗れたユーシチェンコ派のデモが起こったのです。選挙結果を不正であるとしてデモを起こすのは、グルジアのバラ革命の際と同じパターンです。ユーシチェンコ陣営を応援して、アメリカのNGOや欧州安全保障協力機構(OSCE)などが選挙に不正があったと一斉に非難を始めました。外国の応援を得てデモはますます膨れ上がり、ウクライナ全土があたかも新欧米派のオレンジ色の旗に占領された感がありました。

 

オレンジ革命は私が赴任する前年に起こりましたが、デモが吹き荒れる中、欧米諸国や我が国はアメリカ大使館での情報分析会議に参加していました。この圧力に屈してクチマ大統領は再選挙に同意します。そして、12月に行われた再選挙の結果、今度はユーシチェンコ候補が勝ちました。つまり、ユーシチェンコ候補が勝てば、選挙は公正に行われたということになったわけです。

 

アメリカのプーチンに対する反撃はこれで終わったわけではありませんでした。次に標的になったのは中央アジアに位置するキルギスです。キルギスでは2005年3月に議会選挙が行われ、アカエフ大統領の与党が圧勝しました。しかし、野党陣営はこの選挙は防いだとしてデモを起こし、再選挙とアカエフ大統領の退陣を求めました。これに対し、アカエフ大統領はロシアへ逃亡し、ここにキルギス「チューリップ革命」が成就したのです。お気づきの通り、グルジアやウクライナの革命とまったく同様のパターンでした。

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