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戦前から顕在化していた、詰め込み教育の弊害1

「幕末の志士亡き後、戦前の試験エリートは失策に失策を重ねた」 [1]から続く。
大正から昭和へと時代が進むにつれて、試験エリートたちの失策は止まらなくなる。
その中で太平洋戦争直前期、少数ながらも、試験制度⇒詰め込み教育の弊害に警鐘を鳴らす人物も登場する。

『新糾弾掲示板』「スレッド<官僚論・東大論」 [2]からの引用。

明治が終わり大正時代が始まりますと、明治維新から国家の近代化を進め、日清、日露戦争を戦った維新の志士たちの時代が終わり、高等教育を受けたエリートたちの時代になっていました。日本の経済もお上という官営主導の産業構造でしたが戦争需要を背景として欧米列強に並ぶ発展をしておりました。藩閥や閨閥による企業経営や新興財閥の形成などがあり、多くの成金達も出現しました。しかし、西欧列強の侵略を免れ、皇帝専制政治から議会を通じた政党政治を志向するアジアのリーダーたる条件が整えられていた時代でもありました。

この時代こそが、近代日本の国家形成にとり極めて重要な時期であり、真のアジアの開放、アジアの発展、ひいては日本の国家繁栄のための近代的国家戦略と政治が、新興のアメリカ同様に日本人の全ての叡智を集めて行われなければならない極めて重要な時代であったのです。そして明治維新後に創設された最高峰の学校の究極の設立目的が、国家100年の大計たる維新後半世紀のこの時代のための人材育成に他なりませんでした。山本権兵衛や原敬首相は藩閥政治打倒のために、高等教育出身者の登用を推進しました。原敬などは高等教育機関の不足を実感し、専門学校だった早稲田や慶応を東京帝大と同格の私立大学に昇格させました。

しかし世界的近代国家への入り口の時代だった山本権兵衛内閣は明治の最難関たる海軍兵学校出身者らが起こした汚職事件で退陣を余儀なくされました。これはシーメンス事件(1914年,大正3年)と呼ばれますが、ドイツの武器会社シーメンス社やイギリスの軍艦造船会社などから賄賂を受け取った空前の疑獄事件でした。ここに関わった海軍の高官はいずれも海兵-海大出身者であり、それに新興財閥の三井物産が中継役を果たしていました。

陸軍士官学校
はどうだったでしょうか。それは1918年のシベリア出兵でよく見えます。ロシア革命の列強国による干渉戦争だったこの派兵は海軍長老の山本権兵衛や原敬首相の日米共同歩調の政策・指令に対して、陸士-陸大出身者により率いられた陸軍参謀本部はこれを無視し、列強国が撤兵した後も何の展望も戦略もなく駐留し続けました。目的もなく極寒の地に駐留させられる兵士達の中に不満が渦巻きました。このときの陸大卒の司令官津野一輔は荒んだ兵士達の略奪強姦を鎮めるために陸軍公認の慰安所を設置しました。従軍慰安婦問題の先駆けです。結局この派兵は当時の国家予算12億円に対して9億円を浪費し、尼港事件のような多数の日本人の命が失われ、その挙句に日米関係の悪化と世界的な孤立という歴史的に全く馬鹿げた派兵に終わりました。

国内では高騰する米価の調整に官僚主導の行政が失敗し、軍需品にかこつけた買占めが横行して日本経済は深刻なインフレと不景気に見舞われました。米騒動
という国民の暴動が各地に起こりました。また、この派兵をめぐる国際外交では、後に首相となる幣原喜重郎駐米大使の失敗につぐ失敗の外交が挙げられていますが、幣原は陸軍に対して外交は外務省一元外交である旨を通告し、現在の省庁縦割り行政の先駆けになりました。陸軍は「戦争遂行に素人は口を出すな」、海軍は「海戦に素人は口を出すな」の首相や元勲をも超える縄張り意識が難関出身者達の間で深刻に形成されていった時でもありました。

さて、シベリア出兵後のインフレ不況から大正13年に関東大震災が起き、日本経済は更に打撃を受けました。ここで山本権兵衛が再度内閣を組織しますが、摂政時代の昭和天皇暗殺未遂事件が起きてまたも退陣し、選挙管理内閣の清浦の後をついで東大首席の加藤高明が首相になりました。次のやはり東大首席の若槻礼次郎内閣のときに昭和の金融恐慌が起こりました。これは震災手形と呼ばれた債権が文字通り不良債権化したことから起きた恐慌で、破綻する銀行が相次ぎましたが若槻内閣は有効な手を打てず、総辞職します。

昭和天皇は明治天皇と同様に文官官僚による政治運営を希望したと伝えられていますが、東大卒外交官の幣原喜重郎の曖昧自由主義外交や若槻の経済失政の混乱で、長州閥陸大出身の田中義一内閣の登場を許すことになりました。田中は一転して文官官僚の政策を軟弱とみなし、外交方針も軍縮も全て反故にし、シベリア出兵の教訓を生かすことなく満州侵略の野望を膨らます満州関東軍参謀の陸大出身板垣征四郎や石原莞爾の暗躍を許すことになります。

同じ関東軍参謀であった東條英機は、戦後の東京A級戦犯裁判の法廷で、「自分は天皇の忠実な臣下として戦ったまでだ」と答え、ならばこの戦争は天皇の意思・命令によったのかと尋ねられると、「自分が独断でやった」と言葉を変えています。これが真実だと思いますが、明治維新後に嘱望された日本のエリート達は陸士、海兵、或いは東大卒以外の人間の言葉には耳を貸さないという想像を絶するエリート意識の権化となり、それは天皇にまでも及ぶ凄まじいものになっていたのです。まさにおのれの自尊心や虚栄のためならこの国が滅びようとも変えないという「詰め込み教育欠陥人間」と呼ぶにふさわしい最低の日本人に成り果てた姿でした。

張作霖爆殺にはじまる満州事変
の勃発で、昭和天皇から叱責されて退陣した田中内閣の後を東大次席の浜口雄幸が引き継ぎますが、彼が片腕と頼む井上準之助の緊縮経済や金解禁は見事に失敗に帰して、日本経済は破綻寸前に追い込まれました。浜口は恐ろしいほどの頑迷実直さで、井上はその傲岸不遜のためにテロに倒れますが、日本経済を救うのはまたしても金融恐慌のときの大蔵大臣、かのヘボンが創立した明治学院出身の高橋是清の積極経済政策でした。

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