日本最古の銭は、飛鳥時代に鋳造された富本銭とされています。
「金貸し」という職業もそのとき同時発生的に誕生したと考えられています。
しかしその起源は日本ではお金が流通する以前から、人民に米を貸し付けて利息を稼ぐという「米貸し」という行為を中央権力が主催していました。
日本では米は、弥生時代の紀元前400年頃から作られていたとされています。
現在でも「米の中には7人の神様がいる」と言われるように、米は神聖なものとして扱われ、神に捧げるため神聖な蔵に貯蔵されるようになりました。
その稲は特別な能力を持っていると考えられ、毎年春の作付のときに初穂を貸し出し、秋の収穫が終わると、富をもたらしてくれた神へのお礼として、借りた種籾に利息分を付けて蔵に返すという習慣ができました。
また米は保存のきく穀物であるため、広く貯蔵庫が作られるようになっていきました。 そして大化の改新のころには、貯蔵された米を貸し出すようになったのです。この米貸しは「出挙(すいこ)」と呼ばれました。
出挙とは、簡単に言うと稲の貸付で、春に稲を貸付け、秋に回収する利子付き貸与のことです。出挙には、公出挙(国が行う稲の貸付け)と私出挙(荘園領主や寺院など民間が行う稲の貸付け)があります。
国司が租として納められた官稲を春に貸し付けて、秋の収穫後に三割ないし五割の高率の利息をつけて返させたものでした。救貧と勧農を主旨とするものでしたが、実際には強制的に貸し付けるなど雑税のようになって国家財政の大きな収入源となっていました。農民にとっては過重負担となり売地や逃亡浮浪の原因となりました。
ちなみに、利率は公出挙3~5割、私出挙10割程度であったと言われています。
金貸しのルーツは、初穂という純粋に宗教的な儀式でした。
しかし次第に現実的な政府税収確保のための手段として用いられるようになっていきました。
なぜ民にとっての精神的な習慣が個人の私欲に変わっていってしまったのでしょうか。
私出挙によって富を築いていったのは寺院です。仏教は朝鮮半島との交流により、百済(くだら)から6世紀半ば頃(古墳時代の後期頃)に日本に伝来したといわれています。略奪系の渡来人が入り込むことで、文化やモノの他に、市場観念も入ってきたのではないでしょうか。贈与が一般的だった日本人にとって、「人に貸付け、利息を得る」という観念はありませんでした。