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銀行のシステムは中国で生まれた?

近代の銀行の発足はイングランドと言われています。

その形が近代の金融として世界を動かしてきました。その根源はどこかというところを調査したところ、中国の名前が挙がってくる。

そこで中国の貨幣の歴史を見ていく。

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始皇帝『中華統一』のカギは『貨幣統一』だった

中国を最初に統一したことで知られる秦の始皇帝。

それまでダークホース的な存在だった秦が、他国を平らげ統一を果たしてました。

この秦の勝利に対して、歴史家による様々な分析がなされており、様々な勝因がある中で見過ごされがちながら、非常に大きな経済的要因もある。

それは「通貨の統一」である。

秦は、まだ戦国時代の一地方政府に過ぎなかった紀元前336年、政府による「半両銭」の鋳造を始めた。

当時の中国では、すでに貨幣の鋳造は行われていたが、あらゆる勢力があらゆる都市で勝手に鋳造していたため、形状も価値もバラバラで、非常に使いにくいものだった。

秦の政府は、形状と価値が統一された「半両銭」を鋳造し、領民に対して使用を強制しました。それと同時に、他国の貨幣を持ち込んだり、使用したりすることは禁じられた。

このような「公定貨幣」を製造していたのは、当時の戦国中国7カ国の中では、秦だけなのである。

貨幣が統一されれば、流通が促進され、都市が発展する。政府にとっても、徴税や軍備が格段にやりやすくなるし、何より増収になる。秦が戦国末期に大きな力をつけたことには、この半両銭の鋳造が大きく関係している。

 

中国は東アジアの「中央銀行」だった?

中国は貨幣鋳造において世界の先端を走る。

たとえば紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて、前漢の武帝によってつくられた五銑銭は、平帝までの約120年の間に、280億枚つくられたとされている(『漢書』「食貨志下」)。

年間2億数千万枚がつくられた計算になる。現在の日本の100円硬貨の製造枚数が年間1億枚から3億枚なので、それに匹敵するものである。

古代中国でこのように大量の貨幣鋳造ができたのは、金属の加工技術が優れていたからである。

古代中国では、すでに鉄鉱石を溶かして鋳型に流し込んで鉄製品をつくる「鋳造」が行われていた。この「鋳造」は大量生産が可能だが、鉄鉱石を溶かす溶鉱炉が必要となるため、高い技術力が求められた。ヨーロッパで鉄の鋳造ができるようになったのは、14世紀くらいのことであり、中国は千数百年も進んでいたということである。

そして、漢の上を行く大量の鋳銭をしたのが10世紀に勃興した「北宋」である。

北宋の鋳銭所は、37か所、鉄銭44か所あった。北宋の150年間で、銅銭、鉄銭を合わせて、2000億枚から3000億枚がつくられたという。

特に王安石、が宰相だった時代は、1073年に銅銭の鋳造所を増設し、翌年、宋銭の国外持ち出しを許可している。

当時、銅の輸出を開始していたが、銅をそのまま輸出す

るよりも、宋銭として輸出したほうが価値が上がる。つまり、1073年の鋳造所の増設は、銅銭の輸出のためだったと言えます。

この北宋の銅銭、鉄銭は、日本、ベトナム、朝鮮に大量に輸出された。北宋の銅銭は、貿易に使われる「国際通貨」としてのみならず、周辺国の「日常通貨」にもなった。

つまり、北宋は、中園、日本、ベトナム、朝鮮の中央銀行だったともいえる。

 

中国を「金融先進国」にした世界初の紙幣

中世に入ってからも中国は、金融、通貨において世界をリードする。

北宋の時代の1023年、中国は世界で初めての紙幣「交子」をつくった。北宋の時代、中国の四川地域では商業が発展していたが、通貨は「鉄銭」を使用していた。

当時の宋では、西夏との戦争に備えての軍費調達のため、鉄銭を鋳造していた。これを四川地方で銅銭と等価の使用を強制したが、重い鉄銭は持ち歩くのが大変であり、高額取引には不便でもあった。そのうち鉄銭を預かる「交子舗」という金融業者が現れた。

「交子舗」というのは、鉄銭を客から預かり、預かり証を発行するのである。

この預かり証は鉄銭と同じ価値を持つため、通貨の代わりとして用いられるようになったのだ。この預かり証のことを「交子」と呼んだのである。当時の四川地域では、印刷技術も発達していたため、このようなことが可能だったのだ。この「交子」は、四川地方を中心に広く普及するようになったが、やがて預かった鉄銭の何倍もの「交子」を無茶に発行する悪質な業者も現れた。「交子」を「交子舗」に持っていっても鉄銭と交換してくれない「取り付け騒ぎ」のようなことも起きるようになった。

それを見た北宋政府は、公的な「交子」を発行することにした。これは「官交子」と呼ばれ、これが世界で最初の政府による紙幣となる。

「官交子」は、一界(3年)の発行額を125万貫とし、党換準備の鉄銭は36万貫とした。

つまり、36万貫の鉄銭を準備することによって、89万貫を上乗せして紙幣を発行したのである。この上乗せ発行分は、北宋政府の収入ということになる。つまりは、「鉄銭本位制」による通貨発行をしていたということである。

後に17世紀頃、イングランド銀行が、同様の仕組みで金の引換券として通貨を発行し、これが近代銀行の成り立ちと言われていますが、その仕組みは北宋の「交子」の時に産まれている。

こういった中国の貨幣、金融の歴史を見ると先端的な挑戦を多く成功させている。近年デジタル人民元のような仕組みや借金漬け外交といった政策による勝利も多々ある。

金融に関しても歴史ある中国の今後の動き、戦略にも注目していく。

引用元「お金の流れでわかる世界の歴史」

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