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市民の生活と密接だった大正時代の金貸し、【質屋】!!

金融業は明治時代に入ると分業化が進みました。

大きく分けると「銀行」と「質屋」ですが、銀行は現在のような事業融資を中心に、質屋は質草(質に入れる品物のこと)を預かって小口融資を専門にすることになっていき、それが現代まで続いています。

 

しかし質屋で預かる商材は変化しており、かつては変質しにくいもの、例えば衣類、鍬などの農具、キセルなどの嗜好品、時代が進めば家電などが主だって取り扱われているものでしたが、現代ではブランド品、小型家電、貴金属など小さく単価が高いものが預けられることが多くなっています。

 

更に時代は進み、大正時代から高度経済成長期における貸金業は、主に【質屋】が担っていきました。

その一つとして、国からの補助金を受け、地方自治体や社会福祉法人が運営していた「公益質屋」というものがあります。

もともとヨーロッパで発達した制度でしたが,日本でも社会問題,とりわけ庶民金融問題の発生・深化に伴う政府の社会政策的施策の一環として導入されました。具体的にいえば,大正元年,宮崎県南那珂郡細田村に誕生した公益質屋がはじまりで,その後昭和2年の公益質屋法の公布を契機に発展し,以来浮沈を経ながらも今日まで存続しています。

 

この公益質屋に関する調査・研究は,私営質屋のそれに比べると著しくたちおくれ,主として官公庁で行なった当該制度の概要,優良経営事例の紹介,公益質屋法の解説にとどまっています。こうした調査・研究の欠如は,公益質屋の歴史が新しいばかりでなく,当制度導入の目的であった高利貸・私営質屋の牽制効果が必ずしも十分ではなく,研究者にとって魅力に乏しかったことによります。

もっともその理由は,高利貸・私営質屋の根強い存続と公益質屋に対する抵抗,およびこれに対する政府の施策上の失敗,たとえば質屋の貸付基盤の変化に関する認識不足,協同組合質屋に対する無理解と官庁間の縄張り争いなどによるものと考えられます。

 

公益質屋は、低所得階層に対して低金利で生活資金を貸し付ける非営利目的の金融機関です。営業質屋と呼ばれる一般の質屋よりも金利が低く、質流れまでの期間が長いなど、生活に困窮する社会的弱者の救済に主眼を置いたものでした。この制度は1912(大正元)年に宮崎県で始まったものが最初と言われています。その後、1927(昭和2)年に関連法が定められ、市町村および社会福祉法人が事業を担っていきます。東京都では一時期、都営の公益質屋も存在していました。

質屋の発展を後押ししたのは、世界大戦後のインフレでした。物不足により物価が高くなると、物はあるけど金がないという多くの庶民が質屋を利用していました。

 

生活を維持するのが精一杯で、お金を返す当てがないという債務者も多くいましたが、質屋にとっては、お金の返済がなくともインフレ経済のおかげで、担保として預かっている品物を売却して利益を得ることができました。

現代のようにクレジットカードや消費者金融が発達しておらず、支払いは現金が当たり前だった時代に、どうしても現金が必要なときの手段として公益質屋は定着していきます。

 

 

このように、質屋は市民の経済的危機を救うために生まれたことがわかりました。

老若男女問わず、モノさえあればお金を借りることができる質屋は必須の存在だったのでしょう。

市民にとって質屋(金貸し業)とは生活の一部であり、欠かせない存在であったことが分かります。

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