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日本の通貨の歴史(7世紀後半~16世紀)~なぜ16世紀に宣教師は、日本に来たのか?~

現在の日本の通貨は、硬貨(政府が製造・発行する、五百円等の額面のもの)、日銀券(一万円札等)が使われていて、最近は、電子マネーといったものまで人々に流通しています。
一方、昔を遡れば古今東西で金銀銅などの素材が通貨の材料として使われていました。

今回は、いつまでも美しく光り燃えにくいことから、蓄蔵に適していたとされる金銀銅。
特に、16世紀は世界各地で流通している銀量の、実に「3分の1が石州銀」であったといわれ、石見銀山が当時の世界経済の一翼を担っていたこと、なにより多くの海外の貿易商人=宣教師が(キリスト教を布教にきたとされ)来日した本当の目的は何だったのか見ていきたいと思います。

 

※通貨の日本史 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで (高本久史著)参考。
(ブログ画像は、本書引用)
時代は遡りながら、いつの時代に通貨が発行されてきたのか追っていきます。

 

◇日本で流通した通貨の始まりは、七世紀後半の「無文銀銭」。 [1]

よく教科書にも日本初の金属通貨として、和同開珎というイメージが強いかもしれません。
実は、それよりも昔660年代ごろ(天智天皇の治世)には、「無文銀銭」という銀貨が、
近江や飛鳥・平城京を含む畿内で主に流通していたことが分かってきました。
※ただし、畿内では銀は算出されない。

無文銀銭は貿易通貨として、朝鮮半島の新羅から輸入された、という説が有力です。

銀は単位質量あたりの価値が大きいため、この頃、庶民が取引して使う通貨ではなかったと推測。
庶民の日常的取引は従来と同じく、布や米が使われていると考えられます。

 

◇「富本銭(現在確認出来る最古の国産の銅貨)」が683年代に登場。 [2]

683年、天武天皇は銀の地金(未加工の銀の塊)の使用を禁止します。一因としては、中国の制度を真似て朝廷が銭を
発行することで、改元などと同じく、天皇の権威を示すためのデモという面があったと推測されます。

⇒銅銭を使うように命じ、富本銭(現在確認出来る最古の国産の銅貨)」を発行するのです。

 

以降、政府が通貨を発行する目的は、大まかに
「天皇の権威を示す」「発行益を得る」「政府の建設事業の遂行」のためにあったと考えられます。

 

◇世界経済の一翼を担っていた石州銀を求めて、貿易商人(西洋、中国)と日本の関係性。

戦国時代、世界各地で流通している銀量の実に「3分の1が石州銀」であったといわれ、石見銀山が当時の世界経済の一翼を担っていました。
一翼を担えたのも、朝鮮半島から伝わったとされる灰吹法(精錬の最終過程で銀・鉛を除く技術)による生産技術の革新が背景にあります。
そして、日本の銀は以来15世紀まで輸入品でしたが、16世紀に輸出品へ転じ、更には通貨として使われるようになるのです。

日本で、銀の供給量が増えるとともに、ヨーロッパの商人や宣教師が来日します。
よく、宣教師(特にフランシスコ・ザビエル)はキリスト教の布教のために来日したと言われますが、はたしてそうなのでしょうか??

※石州銀を求めた、貿易商人(西洋、中国)と日本の関係性について下記に記します。
登場人物は、①西洋諸国の「商人」、②「中国」と③中国地方「日本」の戦国大名の3者

①スペインやポルトガルの貿易商人の思惑:本国で高価で売れる中国産の『陶磁器』『絹織物』および東南アジア産の『香辛料』を渇望。
中国(明)の産物および思惑:陶磁器と生糸産業が活発。火薬の原料である硝石の一大産地である。銀納制を導入としているので『銀』を欲している。③日本の産物および思惑:石見銀山から豊富な銀が産出される。また刀剣など鍛冶産業が盛ん。中国産の『生糸』と『硝石』を欲している

莫大な利益を得たい①(商人)は、当時の②(中国)と③(日本)、両者の特産品と欲している産物などの情報をアジア各国に布教活動に、
従事している宣教師たちを通じていち早く入手した後、中国へ赴き、倭寇との私貿易によって特産の生糸を安値で大量に買い取り、
それを日本へ持って行き、中国産生糸を日本で販売します。その代価として商人たちは日本の商人たちに石見銀山で大量に産出されている

『銀』での支払いをさせます。そして、日本で得た石見銀を中国へ持って行き、その銀で再度、生糸と陶磁器や香辛料を大量に買い漁り、
それらを本国の西洋諸国へ持ち帰り、高価で売り捌き、巨万の富を得るという構造にあったのです。

 

◇では、16世紀に宣教師が日本に来た真の目的とは?

1510年にポルトガル王国が武力行使によってインドの西海岸の都市・ゴアを占領して以降、多くの貿易商人や宣教師が、
同地を交易・布教の活動拠点としていました。
因みに日本に初めてキリスト教を布教した宣教師・フランシスコ=ザビエル、名著「日本史」の著者・ルイス=フロイスといった、
日本では有名な宣教師たちも来日前には、ゴアに滞在して日本や語学の勉強に勤しんでいたと言われています。

 

ゴアを拠点として商業活動を行っている西洋の貿易商人たちは、ザビエルやフロイスをはじめとする
宣教師のパトロン(スポンサー)になることによって、彼らを中国や日本など各アジア諸国に派遣して、各国の風俗や産物の調査を依頼するのです。
宣教師たちが送ってくれる情報に拠って、商人たちはアジア諸国の産物を安値で買い漁り、それらを本国(西洋)に輸出して高値で売り捌くこと
によって巨万の富を得ていた
のです。

 

商人たちは、ただ宣教師たちのキリスト布教のみを応援して資金を提供するという好々爺ではなく、やはり利益を追求する職業であるので、宣教師たちを現地マーケティング調査員として派遣してアジアの産物情報を抜け目なく入手していたのです。

 

宣教師のザビエルが、山口で布教を重点的に行っていたみたいですが、山口に本拠を置いたのは、石見銀山を領有していた大内氏とコネをつくるためという、戦略があったのでしょう。

 

以上

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